内藤政恒_(考古学者)
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内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年明治40年〉7月17日[1][2] - 1970年昭和45年〉10月21日[1][2])は、昭和期の考古学者日向延岡藩の元藩主内藤政挙の六男[1]。旧三河挙母藩内藤家の14代当主で、13代当主内藤政光の養子。日本歴史考古学会会長、侍従常陸宮傳育官、皇后宮事務官、式部官、玉川大学文学部教授、東京薬科大学教授。正五位
経歴

宮崎県東臼杵郡岡富村[2](現延岡市)本小路[3]の内藤政挙、英子の自邸で六男[1][注釈 1]として生まれた。1914年(大正3年)岡富尋常高等小学校(現延岡市立岡富小学校)に入学し、1920年(大正9年)に卒業。小学校3年の頃、内藤家の使用人が東臼杵郡南方村(現:延岡市)雨下(あもり)で考古資料を収集していた有馬七蔵の娘だったので、その地を訪れて考古資料を見学したり資料採集を経験した[3]

1920年4月、東京府北豊島郡高田町(現豊島区目白一丁目)の学習院中等科に入学し寄宿舎生活を送った[3]。課外活動では輔仁会[注釈 2]の陸上部に所属して活躍した[4]。学校の休暇時の帰省時には、内藤家伝来の武具、古文書類に触れて歴史への関心を深めた[5]。1924年(大正13年)12月14日、内藤政光、道夫妻の養子となる[2][5]。養父母とそれほど年の差がなく、養家に同居は求められず比較的に自由に活動できた[5]。1926年(大正15年)学習院高等科文科に進み引き続き陸上競技の活動を続けた[5]。1929年(昭和4年)4月、東北帝国大学法文学部に入学[2][5]。当初、美学の受講を希望していたが開講がなく、喜田貞吉講師の日本考古学などの講座を受講し、歴史資料への関心がよみがえり日本古代史の学びに取り組んだ[5]。しかし、1930年(昭和5年)2月に神経衰弱と診断され学年末試験の受験が不可となり、同年3月下旬に大和路の古寺を巡る旅に出て、飛鳥地方の廃寺の古瓦の採集を行い、その後の研究テーマが与えられた[6]。同年4月、国史科に転科した[2][7]。1931年(昭和6年)7月、国史科学生の東京見学旅行に参加し、帝室博物館(現東京国立博物館)の嘱託であった養父の紹介などで同監査官補石田茂作と面識を得て、政恒は石田を終生、歴史考古学の師と仰いだ[7]。大学在学中は特に東北地方の陸奥国分寺跡・同尼寺跡、多賀城跡・同廃寺跡、菜切谷廃寺跡などの古代遺跡を調査し、卒業論文「遺址を中心とした平安朝以前の寺院の位置を論ず」をまとめ、1933年(昭和8年)3月、東北帝大を卒業した[2][7]。同年5月、同大学院に進んだ[2][7]。1934年(昭和9年)1月、横須賀・陸軍重砲兵連隊に入営が決まったが、学習院高等科在学中の投擲競技練習のため右肩が習慣性脱臼となったため即日除隊となり、同年6月に再度徴兵検査を受けて丙種となり徴兵が免除された[8]。1935年(昭和10年)4月、東北帝大から「法文学部ニ於ケル臨時考古学参考品整理嘱託」に任じられ大学院を退学[2][8]


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