この項目では、鳥羽藩主について説明しています。ピアニストについては「内藤忠勝 (ピアニスト)」をご覧ください。
凡例内藤忠勝
時代江戸時代前期
生誕明暦元年(1655年)
死没延宝8年6月27日(1680年7月22日)
別名左兵衛(通称)
墓所鳥羽市の西念寺
官位従五位下、和泉守
幕府江戸幕府
藩志摩鳥羽藩主
氏族内藤氏
父母父:内藤忠政、母:板倉重宗の娘
兄弟忠次、波知、忠勝、忠知
内藤 忠勝(ないとう ただかつ)は、志摩鳥羽藩の第3代藩主。第2代藩主内藤忠政の次男。 寛文11年(1671年)、兄の忠次が跡を継ぐことを固辞して(あるいは病気のため)廃嫡されたため、代わって嫡子となる。寛文13年(1673年)の父の死去により9月11日に跡を継ぎ、弟の忠知 延宝8年(1680年)、第4代将軍・徳川家綱の77日法要に際し、芝増上寺参詣口門の警備を命ぜられた。普段から忠勝と仲の悪かった永井尚長は出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとした[1]。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長は無視したため、忠勝はこれを恨んで脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを刺殺した(芝増上寺の刃傷事件)[2]。この際、忠勝は遠山頼直(政亮)に拘束され、伊奈忠易
生涯
家督相続
増上寺刃傷事件と切腹
このため6月27日に忠勝は西久保の春龍寺にて切腹を命じられ、御家断絶とされた[4]。享年26。 甥(姉・波知の子)の播磨赤穂藩主・浅野長矩は、21年後に同様の事件を起こして同じ末路をたどることになるが、『江戸トンデモ殿さま列伝』では、これは内藤家の遺伝子がそのまま長矩に受け継がれたのではないかとされており、忠勝も長矩も癇癪持ちで、しかも内藤家は精神病の家系だったことから、忠勝の兄の忠次が家督を辞退したのは精神障害だったためと推測し、忠勝にもその障害があったのではないかとする[2]。
人物像と諸説
脚注^ グループイストゥワールF2 2009, p. 23.
^ a b グループイストゥワールF2 2009, p. 24.
^ 『常憲院殿御実紀』延宝八年六月二十六日条
^ 『常憲院殿御実紀』延宝八年六月二十七日条
参考文献
グループイストゥワールF2 編『江戸トンデモ殿さま列伝』PHP研究所、2009年。
表
話
編
歴
内藤氏鳥羽藩3代藩主 (1673年 - 1680年)
九鬼家
九鬼守隆1597-1632
九鬼久隆1632
摂津三田藩に転封
内藤家
内藤忠重1633-1653
内藤忠政1653-1673
内藤忠勝1673-1680
永井尚長殺害の罪により切腹、断絶
一時的に幕領
土井家
土井利益1681-1691
肥前唐津藩に転封
大給松平家
松平乗邑1691-1710
伊勢亀山藩に転封
板倉家
板倉重治1710-1717
伊勢亀山藩に転封
戸田松平家
松平光慈1717-1725
信濃松本藩に転封
稲垣家
稲垣昭賢1725-1752
稲垣昭央1753-1773
稲垣長以1773-1794
稲垣長続1794-1818
稲垣長剛1819-1842
稲垣長明1842-1866
稲垣長行1866-1868
稲垣長敬1868-1871
廃藩置県