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凡例内藤 如安 / 内藤 忠俊
聖ヴィンセント・デ・ポール・パリシュ教会の記念碑(マニラ)
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文19年(1550年)頃
死没寛永3年(1626年)
改名貞弘→忠俊
別名汝安[1]、如庵、寿庵[2]
通称:五郎[3]
号:徳庵[2]
霊名ジョアン
官位備前守、飛騨守
主君足利義昭→小西行長→前田利長
氏族内藤氏(藤原北家秀郷流)
父母父:松永長頼、母:内藤国貞の娘
兄弟貞勝[注釈 1]、玄蕃、如安、某、ジュリア
子休甫
内藤 如安(ないとう じょあん) / 内藤 忠俊(ないとう ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。
如安はキリスト教の洗礼名ジョアンの音訳名で、諱は貞弘(さだひろ)、忠俊(ただとし)。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波国の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された[4]。 天文19年(1550年)頃[5]、三好氏重臣である松永久秀の弟・松永長頼の息子として生まれる[6]。 父・長頼は畿内で強盛を誇った三好長慶の下、部将として活躍し[7]、丹波守護代である内藤国貞の娘婿となっていた[8]。天文22年(1553年)に国貞が討死すると、長頼は内藤氏の居城・八木城(船井郡)に入り、子・千勝(貞勝)を内藤氏の家督として、その後見を務めた[9][注釈 1]。この後、貞勝が内藤家当主として備前守の官途を名乗っていたが、永禄5年(1562年)には長頼が内藤備前守宗勝と名乗って当主の座についていた[11]。 三好氏による丹波支配を任された長頼は[12]、永禄2年(1559年)12月には波多野元秀の八上城(多紀郡)を陥落させ[13]、黒井城(氷上郡)の赤井時家・荻野直正(赤井直正)父子も播磨国三木へと追って[14]、丹波平定を成し遂げた[13]。しかし、赤井時家や荻野直正は徐々に勢力を回復させていき[15]、永禄8年(1565年)8月、長頼は荻野直正によって討ち取られた[16]。 また、この年の春、如安はルイス・フロイス、またはガスパル・ヴィレラによりキリスト教に入信している[17]。
生涯
出自
足利義昭・織田信長との関わり