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やノートページでの議論にご協力ください。内藤 大助2009年11月、亀田興毅戦のリングにて
基本情報
本名内藤 大助
通称北の剛拳
最短男
国民の期待
リアルはじめの一歩
階級フライ級
身長163cm
リーチ173cm
国籍 日本
誕生日 (1974-08-30) 1974年8月30日(49歳)
出身地北海道虻田郡豊浦町
スタイル右変則ファイター
プロボクシング戦績
総試合数42
勝ち36
KO勝ち23
敗け3
引き分け3
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内藤大助
YouTube
チャンネル
内藤大助ちゃんネル
活動期間2020年6月13日 -
登録者数約5110人
総再生回数約659864回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2021年9月11日時点。
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内藤 大助(ないとう だいすけ、1974年8月30日 - )は、日本の元プロボクサー。
元WBC世界フライ級王者。第49代日本フライ級王者、第35代OPBF東洋太平洋フライ級王者。宮田ジムに所属していた。
引退後はタレントやボクシング解説者として活動している。
北海道虻田郡豊浦町出身。マネジメント先はトラロックエンターテインメント。血液型O型。既婚。2男の父。 母親は、大助を身ごもっている時に夫と離婚しており、アルバイトで大助と4歳上の長男を養い、後に小さな民宿を始めた[1]。一家の生活は楽ではなかったものの、学校ではマラソン大会や運動会の徒競走で必ず1位になるなど運動神経抜群で、クラスでは人気者だった。 中学では卓球部に所属、2年になるといじめの標的にされた。生活が苦しかったため、兄のお下がりの制服やスキーウェアなどを着ていけば「ボンビー(貧乏)」というあだ名で馬鹿にされた。給食のおかずや貴重品を取り上げられたり、教師に見つからない人目につかない場所で暴行も受けた。内藤は胃潰瘍を患うまでに追い詰められるも、教師からはいじめには気付いてもらえず、気の強い母親への相談も諦め、1人でいじめに耐える中学生活を送った[2][3]。 進学先の北海道豊浦高等学校にいじめ加害者らが進学しなかったことから、ようやくいじめから解放され、新しい仲間との出会いを通じて本来の明るさを取り戻す。ハンドボール部に所属し、3年時には同校初の全道大会出場に貢献した。 卒業後には洞爺湖そばにあるホテルに調理師として就職が内定していたが、春休みの研修で上司と口論になり内定を取り消され、就職に失敗した[4]。 以降、定職に就かずだらだらと日々を過ごしていたが、母親に叱咤され上京した。母はあらかじめ、生別した実父が経営する工務店に「大助を働かせてやってほしい」と話をつけていた[5]。上京から1年後、書店で目にしたボクシング雑誌に刺激を受け、下宿先の近くにあった宮田ジムに入門。内藤はボクシングを始めた動機について「地元に帰省したらいじめっ子に会うんじゃないかって怖かった。でも、ジムに通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても『ジムに行っている』と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思った」と振り返っている。しかし、格闘技が好きではなかった母から「あんな野蛮なスポーツはダメだ」と叱られ、勘当を言い渡された[2][4]。 1996年10月11日にプロデビュー戦。1RKO勝ちで飾ると、1998年12月19日の全日本フライ級新人王決定戦で福山登(大阪帝拳)に1RKO勝ちし、9勝1引き分けの戦績で新人王を獲得した。 2001年7月16日、坂田健史(協栄)の持つ日本フライ級王座に挑戦するも、引き分けで王座獲得はならなかった(大串事件も参照)。 2002年4月19日、タイでポンサックレック・シンワンチャー(タイ)の持つWBC世界フライ級王座に挑戦し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫した(当該節参照)。しかし、復帰戦でKO勝ち。その後も菊井徹平(花形)を下すなど、順調に勝ち進んだ。 2004年6月6日、日本フライ級王者の中野博(畑中)に挑戦。中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得した。10月11日には小嶋武幸(横浜さくら)を相手に初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒でKO勝ちを収めた。 2005年10月10日、WBC世界フライ級王者・ポンサクレックに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れた(当該節参照)。 2006年6月27日、OPBF東洋太平洋フライ級王者の小松則幸(エディタウンゼント)と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い、小松を6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠となった。12月10日には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い、判定で初防衛している。 2007年、自身の負傷と、日本・東洋王座の防衛戦の兼用が困難になったことなどを理由に、両王座を返上した。 2007年1月から白井・具志堅スポーツジムの野木丈司トレーナーに師事し、戦術とスタミナの強化に努めた[6]。 ポンサクレックとの3度目の世界タイトル戦が決定したが、スポンサー集めが難航し、資金を用意できず開催が危ぶまれた。内藤は会見で「ファイトマネーはゼロでいい。リングに上げて下さい」と懇願[7]、ディスカウントストア大手のドン・キホーテがスポンサーに就いた[8]。
来歴
プロデビューまで
プロデビュー後?日本王座獲得
世界王座獲得
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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