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内藤多仲
生誕1886年(明治19年)6月12日
山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)
死没 (1970-08-25) 1970年8月25日(84歳没)
東京都新宿区第一国立病院
国籍 日本
出身校旧制甲府中学→第一高等学校→東京帝国大学
職業建築構造技術者・建築構造学者・建築家
受賞紺綬褒章(1958年)
紫綬褒章(1959年)
文化功労者(1962年)
勲二等旭日重光章(1964年)
従三位(1970年)
所属早稲田大学
建築物日本興業銀行本店(構造設計)
名古屋テレビ塔
札幌テレビ塔
二代目通天閣
東京タワー
別府タワー
博多ポートタワー
著作『架構建築耐震構造論』
内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)。「耐震構造の父」と称されている[1]。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。
経歴 東京タワー
山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。
1910年に東京帝国大学卒業(同期に高松政雄、安井武雄らがいた)、1913年に早稲田大学教授。
1917年-1918年、アメリカへ1年間留学。旅行用トランクの仕切板を外して積んだため、トランクを破壊してしまった体験や船の構造から着想を得て、帰国後に耐震壁による耐震構造理論を考案した。1924年に、「架構建築耐震構造論」で工学博士号を取得。
この耐震構造理論を用いて耐震壁付き鉄骨鉄筋コンクリート構造の日本興業銀行本店(渡辺節設計、1923年竣工)や歌舞伎座、実業之日本社ビル等の構造設計を実施。興銀の竣工3か月後に関東大震災が起こるが、丸の内にあったアメリカ流の鉄骨造ビルが大きな被害を受けたのと対照的に、興銀が無事だったことで内藤の理論が実証された(歌舞伎座は建設工事中で、内部を焼失したが、躯体は無事だった)。
1938年に溶接学会会長
1941年に日本建築学会会長
1943年に早稲田大学理工学部長就任
1954年に日本学術会議会員
1960年に日本学士院会員、東レ科学技術賞受賞
1962年に文化功労者
1964年に勲二等旭日重光章(現・旭日重光章)
1970年に従三位
また、内匠寮工務課の嘱託として、昭和12年竣工の楽部庁舎の設計に関わった。
戦後は、名古屋テレビ塔や二代目通天閣、東京タワーなど多数(70基[2])の鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれた。