内藤信民
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内藤 信民(ないとう のぶたみ、嘉永3年(1850年)- 慶応4年7月11日1868年8月28日))は、越後村上藩の第8代藩主。信濃岩村田藩主・内藤正縄の五男。官位は従五位下、豊前守。幼名は千代松、初名は正民という。

万延元年(1860年)5月2日に遠縁に当たる越後村上藩主・内藤信思の養嗣子となる。文久3年(1863年)12月19日、将軍徳川家茂に拝謁する。元治元年(1864年)1月27日、従五位下豊前守に叙任する。後に紀伊守に改める。同年4月26日、養父信思の隠居により家督を継いだ。幕末期の動乱の中では終始、佐幕派として行動し、長州征伐(第2次)においても功績を挙げている。

慶応4年(1868年)2月15日、病気を理由に重臣を上洛させる。同年3月、新政府に恭順を申し入れる。しかし、藩論を勤王にまとめることはできなかった。同年5月、村上藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府と交戦状態となる。一時期は善戦したが、越後長岡藩が新政府軍によって破られ、村上藩が危機的状況に陥ると、失意に暮れて7月11日(異説として7月16日)深夜、城内にて自殺した。享年19。墓所は新潟県村上市本町の光徳寺。

信民には嗣子がなかったため、後に信思の養嗣子・信美が跡を継いだ。また、信民が自殺したことで村上藩は大混乱となり、家老である佐幕派の鳥居三十郎が主導権を把握した。信民の死から1ヵ月後の8月11日、村上城は新政府軍によって落城している。











内藤氏村上藩8代藩主 (1864年 - 1868年)
村上家

村上頼勝1598-1604

村上忠勝1604-1618

家中の論争が多いことを理由に改易

堀家
堀直寄1618-1636

堀直次1636-1638

堀直定1638-1642

無嗣子断絶

本多家
本多忠義1644-1649

陸奥白河藩に転封

越前松平家
松平直矩1649-1667

豊後日田藩に転封

榊原家
榊原政倫1667-1683

榊原政邦1683-1704

播磨姫路藩に転封

本多家
本多忠孝1704-1709

本多忠良1709-1710

三河刈谷藩に転封

大河内松平家
松平輝貞1710-1717

上野高崎藩に転封

間部家
間部詮房1717-1720

間部詮言1720

越前鯖江藩に転封

内藤家
内藤弌信1720-1725

内藤信輝1725

内藤信興1725-1761

内藤信旭1761-1762

内藤信凭1762-1781

内藤信敦1781-1825

内藤信親1825-1864

内藤信民1864-1868

内藤信美1868-1871

廃藩置県




更新日時:2015年1月9日(金)06:27
取得日時:2019/01/13 17:24


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