内田篤人
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内田 篤人

シャルケ時代の内田篤人(2015年)
名前
愛称ウッチー、篤人さん
カタカナウチダ アツト
ラテン文字Uchida Atsuto
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1988-03-27) 1988年3月27日(34歳)
出身地静岡県田方郡函南町
身長176cm[1]
体重67kg[1]
選手情報
ポジションDF (SB) / MF (WB)
利き足右足
ユース
2003-2005静岡県立清水東高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
2006-2010 鹿島アントラーズ 124 (3)
2010-2017 シャルケ04 104 (1)
2017 1.FCウニオン・ベルリン 2 (0)
2018-2020 鹿島アントラーズ 24 (0)
代表歴2
2005-2007 日本 U-2012 (0)
2007-2008 日本 U-238 (0)
2008-2015[2] 日本74 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2020年8月23日現在。
2. 2015年3月31日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

内田 篤人(うちだ あつと、1988年3月27日 - )は、日本代表ロールモデルコーチ、元プロサッカー選手、元日本代表タレント。現役時代のポジションは、DF(右サイドバック)。静岡県田方郡函南町出身。日本代表では、アルベルト・ザッケローニ監督在任時に長友佑都と両翼のサイドバックを形成し、一時代を築いた。
来歴
プロ入り前

函南中学校時代は目立った活躍をしていなかったが、高校入学にあたり静岡県中部地区の強豪校を志望し、将来の大学進学も視野に入れ、進学校でもある清水東高等学校に入学。高校へは自宅から1時間半ほどかけて通学していたという。

高校の同級生には多々良敦斗、2学年上には菊岡拓朗荒田智之がいる。卒業に際しては7-8クラブから興味を示され、2006年に鹿島アントラーズへ加入。
鹿島アントラーズ

2006年から監督に就任したパウロ・アウトゥオリに高く評価され、Jリーグ開幕戦(対広島)でクラブ史上初となる高卒ルーキーでのスタメン出場を果たし、ドリブルから先制点となるPKを獲得。続く第4節甲府戦では、ドリブル突破からの先制点でクラブ史上最年少得点を記録し、2点目もアシストした。なお、17歳11か月22日でのプロ初得点は、当時の記録である18歳1か月15日を上回り高卒ルーキーの史上最年少得点記録であった。また、同年のJリーグオールスターサッカーではDF最多得票で史上最年少出場を果たしている。

2007年名良橋晃から指名され、背番号2を引き継いだ。2008年には自身初のJリーグベストイレブンに選出されるなど評価を高め、同年のシーズンオフには鹿島と4年半の長期契約を結んだ[3]。2009年、鹿島は史上初のJリーグ3連覇を達成し、内田自身も2年連続でJリーグベストイレブンに選出された。
シャルケ04 シャルケでトレーニングをする内田(2011年)

2010年7月1日に移籍金推定1億5000万円でドイツブンデスリーガシャルケ04へ3年契約で完全移籍[4]。代理人は小野伸二大迫勇也らと同じ秋山祐輔。移籍当初は代表戦での負傷もあり低調な滑り出しとなったが、秋には右サイドバックのレギュラーに定着した。11月24日のUEFAチャンピオンズリーグ(CL)グループステージ第5節リヨン戦では、相手DF3人を鋭く抜きながらの正確なアーリークロスをクラース・ヤン・フンテラールへ上げCL初アシストを記録し、B組1位通過での決勝トーナメント進出に貢献。CL決勝トーナメント1回戦でバレンシアを破ると、準々決勝では長友佑都が所属するインテルと対戦し、CL初の日本人対決を実現させた[5]。シャルケは両試合とも2-5、2-1で圧勝し、内田は『EURO SPORT』が選ぶCL準々決勝第1戦のベストイレブンに選出された。準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦で、ウェイン・ルーニーとマッチアップする。試合には敗れたものの、CLベスト4という記録はクラブ史上、また日本人としても初めてのことであった[6]。なお、内田はグループリーグのハポエル・テルアビブ戦(ホーム)以降10試合連続フル出場を果たしている。5月21日にはDFBポカール決勝のMSVデュースブルク戦に途中出場し、移籍後初タイトルを獲得した。

2011-12シーズンは開幕前の怪我やコンディション不良、さらに新加入のマルコ・ヘーガーの好調ぶりと右太もも肉離れが重なったことで前半戦は定位置を失いかけたものの後半戦はレギュラーの座を取り戻した。

2012-13シーズンは開幕前に契約を2015年6月まで延長[7]。シーズン当初は扁桃炎の影響で出遅れたが[8]、コンディションが整うと定位置を確保し、11月3日に行われた第10節TSG1899ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初得点を決めた[9]。好調なチームの中にあってジェフェルソン・ファルファンと共に構成する右サイドはシャルケのストロングポイントとなった[10]。2013年1月にはブンデスリーガの英語版公式HPが選ぶ2012年のベスト11に選ばれ[11]、5月には同HPにて2012-13シーズンのベストイレブンに選出された[12]。一方で、前シーズンに痛めた右太もも裏の肉離れでチームからの離脱を繰り返し、11月6日のCLアーセナル戦、12月15日のフライブルク戦、2月6日の日本代表ラトビア戦でそれぞれ患部を痛めた。復帰戦となった3月9日のドルトムント戦ではクロスからのアシストを2度記録しルールダービーでの勝利に貢献した[13]。その時、日本では知られていないが、ドイツの一部では「サムライウッシー」と呼ばれていた。

2013-14シーズンも前半戦は安定したプレーを続けていたが、年明けの2014年2月に右太ももを痛め戦線離脱し、シーズン内に復帰することはできなかった。

2014年10月30日、シャルケと2018年6月までの新契約を結んだ。直後の第10節FCアウクスブルク戦では、今季2アシスト目となる決勝点をアシストした。前半戦は4節まで負傷していたが13試合に出場し、ブンデスリーガ公式サイトのベストサイドバックに選ばれた。

2014-15シーズンは、シーズン序盤と終盤戦は右膝を痛めた影響で戦列を離れたがレギュラーの座は譲らなかった。2015年3月初旬、対ホッフェンハイム戦で膝蓋腱を負傷し、戦線離脱。そのまま2014-15シーズンを終え、シーズンオフの同年6月に右膝の手術を行う。

その後、迎えた2015-16シーズンはドイツや日本国内でリハビリに励んだが十分な回復に至れず、とうとう一試合も公式戦に出場できないまま同シーズンを終えることとなった。また日本代表でもほとんどの試合で招集が見送られ、内田にとってかつてない異例の状況が続いていた。

暫くの間は古巣の鹿島アントラーズの施設をリハビリ活動の拠点としていたが、2016年7月上旬にシャルケのチーム練習に合流。しかし翌8月中頃、シャルケのアクセル・シュースターSDが「内田に関しては残念ながら状態が少し後退した。」とコメント、同時期のクラブ公式ツイッターでも「内田篤人は短期間日本に向かい、そこで彼が信頼する医師の治療を受けることになる」と発表があった[14]。2016年12月8日、欧州ELのレッドブル・ザルツブルク戦で途中出場し、1年9カ月ぶりに復帰を果たした。
1.FCウニオン・ベルリン

2017年8月21日、出場機会を求め、シャルケからブンデスリーガ2部の1.FCウニオン・ベルリンへ2018年6月までの1年契約で完全移籍することが決定した[15]。9月10日に行われた第5節のフォルトゥナ・デュッセルドルフ戦で移籍後初出場を果たし、クロスから同点となる相手のオウンゴールを誘発したが、その後宇佐美貴史に得点を許し、日本人対決となった試合は敗れた[16]。9月20日、SVザントハウゼン戦では約2年半ぶりの先発フル出場を果たした。しかし10月17日に左太ももに肉離れを負ったことが発表され、戦線離脱[17]。さらにクリストファー・トリメルとのポジション争いにも敗れ、ウニオン・ベルリンでのリーグ戦出場は前述の2試合のみとなった。
鹿島アントラーズ復帰

2018年1月2日、古巣である鹿島アントラーズへの復帰が発表された[18]。2月25日、開幕戦の清水エスパルス戦で約8年ぶりにJリーグのピッチに立った[19]。10月3日、ACL準決勝1stレグ・水原三星ブルーウィングス戦で、移籍後初得点となる貴重な逆転ゴールを挙げた[20]。しかし、西大伍とのポジション争いに敗れリーグ戦は13試合の出場に留まり、続く2019年シーズンも第5節の磐田戦での負傷によってリーグ戦10試合の出場に留まった。[21]

2020年8月20日、2020年シーズンでの引退を発表[22]。シーズン終了まで残っていた契約は8月31日で終了し、8月23日のガンバ大阪戦がラストマッチとなる[23]。そのG大阪戦ではベンチスタートとなったが、広瀬陸斗が負傷したため前半16分から途中出場。三竿健斗から受けとったキャプテンマークを巻いて試合終了まで約75分間プレーし、試合終了間際の犬飼智也の同点ゴールの起点となった[24]
日本代表 FIFAコンフェデレーションズカップ2013ブラジル代表ネイマールと対峙する内田(右)

2004年にAFC U-16選手権に向けて日本サッカー協会が主催した早生まれの選手を対象としたセレクションで、そのスピードが関係者の目に留まりU-16代表に招集され、豊田国際ユースサッカー大会AFC U-17選手権2004に出場。この時は右サイドハーフとしてプレーしていたが、その後清水東高校でスピードを生かすためにサイドバックにコンバートされた。プロ入り後、2007年7月のFIFA U-20ワールドカップでは右サイドバックとして全4試合にフル出場。その後、2008年8月には北京オリンピックに出場した。

2007年にフル代表候補の合宿に初招集され、2008年1月26日キリンチャレンジカップチリ戦でフル代表デビューした[2]。19歳305日でのデビューはJリーグ発足後では市川大祐小野伸二梅崎司に次いで4番目の若さであった。同年2月6日にはJリーグ発足後10代の選手としては初めてワールドカップ・アジア3次予選グループ2第1戦タイ戦にスタメンフル出場を果たし、6月22日には同3次予選第6戦最終戦のバーレーン戦で代表初得点を決めた。2010年6月の2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーにも選出されたが、本大会直前に岡田武史監督が守備を重視する戦術に転換したことや体調不良により、右サイドバックのポジションを守備の評価の高い今野泰幸、今野の負傷後には攻守にバランスのある駒野友一に奪われ、本戦出場は叶わなかった。

アルベルト・ザッケローニ監督就任後は再びレギュラーに返り咲き、2011年1月のAFCアジアカップ2011では主力メンバーとして優勝に貢献した。


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