内田喜久
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日本政治家内田 喜久うちだ よしひさ

生年月日 (1925-01-05) 1925年1月5日(99歳)
出生地愛知県岩津村井ノ口
出身校明治大学政治経済学部[1]
所属政党(自由民主党→)
無所属
親族子・内田康宏(岡崎市長)
第16-18代 岡崎市長
当選回数3回
在任期間1971年5月2日 - 1980年6月30日
愛知県議会議員
選挙区岡崎市選挙区
当選回数2回
在任期間1963年4月30日 - 1971年
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内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年大正14年)1月5日[2] - )は、日本政治家新聞記者愛知県岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(2期)を歴任した。「喜久」を音読みして「きく」と読まれることも多い[3]

長男の内田康宏を擁立した1980年6月の衆院選で、検挙者128人(うち逮捕者55人)におよぶ空前の選挙違反事件を引き起こした。愛知県警が解明しただけでも計4,424万円の現金をばらまき、自身のほか、県議1人、岡崎市議25人、安城市議7人、幸田町議6人、旧額田町議4人が逮捕された[4][5]。長年にわたる土建業者との癒着も暴かれ、同年8月、収賄容疑で再逮捕された[6]
経歴

愛知県岩津村井ノ口(現・岡崎市井ノ口町字楼)に、農業を営む父:内田松太郎、母:かまの三男として生まれる。長兄は夭逝したため次男として育てられた[7][8]。1937年、岩津町立大樹寺尋常小学校卒業[9]。1939年、岡崎市三島尋常高等小学校高等科を卒業後[10]、新三河新聞社に記者見習いとして採用される[11]。日刊新聞『新三河』は1940年11月1日、竹内京治の『岡崎朝報』に統合され『三河新聞』と改称する[12]

1941年5月1日、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)に定時制の第二商業学校が併設されると、竹内社長のすすめで入学[3]。一県一紙の国策により1942年7月30日に廃刊となる日まで『三河新聞』の記者を務めた。

1944年10月、召集により満州に送られた。牡丹江省東寧の満州第929部隊に入隊。輓馬の野戦重砲隊に配属される。1945年3月、連合軍本土上陸に備えるため、九十九里浜へ移動。8月、群馬県の駐屯地で終戦を迎えた[13]

1946年明治大学に入学(1952年に同大学政治経済学部卒業)[10][14]1947年4月25日第23回衆議院議員総選挙において岡崎市出身の千賀康治が初当選。「内田には中央のことを勉強させておいた方がいい」という竹内京治のはからいにより千賀の秘書となった。西三河青年同盟をおこし、青年運動にも関わる[15]。西三河青年同盟のメンバーの一人と結婚[16]
愛知新聞を創刊内田が27歳のときに創刊した『愛知新聞内田喜久と妻の美惠子(1958年)県議会議員時代の内田(1967年頃)

終戦直後の1945年12月25日、黒柳章、榊原金之助らが中心となって『東海新聞』が創刊された。1947年、戦前の新聞記者たちはさらなる地元新聞の発刊を企て、元新三河新聞社の工場長の自宅に集まった。たまたま居合わせた内田は請われるままに代表者にさせられ[11]、同年8月、市内板屋町の仕舞屋で週刊新聞『三河タイムス』を創刊した。

1951年初頭、日刊紙への移行を計画し、一般から新紙名を募集。1952年5月10日、株式会社愛知新聞社を設立。新社屋を千賀康治のおいの千賀次良が持っていた旧康生町(現・康生通東1丁目)[注 1]の土地に建てた[19][20]。同年11月1日、『愛知新聞』第1号を発行した[20]。続いて東海放送株式会社を設立した[15]1958年春、原水爆禁止岡崎地区協議会の副会長に就任[21]1961年、中部日本都市広告協会を設立[7]。なお千賀次良は1965年10月2日に病死するまで愛知新聞社の取締役会長を務めた[22]

政治家に転身する前、内田は岡崎市長選挙に二度、選対の参謀として関わっている。1955年の市長選ではかつて秘書として仕えた千賀康治を支援した[23]。千賀は現職の竹内京治に敗れ、翌1956年都電にはねられ死亡した[24]。それを境に旧幡豆郡を地盤にした中垣國男が岡崎に勢力をのばし、中垣に連なる県議の太田光二1958年9月に翌年の市長選への出馬の構えを見せると、竹内の推薦母体である愛市連盟が結成された。愛市連盟の事務局は愛知新聞社本社に置かれた。原水協の活動を通じて、内田には社会党の支持を取り付けられるだろうという目算があった[21]。竹内は「岡崎が中垣に乗っ取られていいのですか」と内田に詰め寄られ、4選出馬を決断した[25][26][27]。どちらの選挙でも敗北を喫したが、細かな情報を駆使した内田の選挙手腕は注目を集めた。

1961年2月頃、ライバル会社である東海新聞社社長の榊原金之助が次期県議選への出馬を表明[28]。若い商店主らによって内田を県議会に送らんとする空気が強まり、「八日会」なる団体が結成された。名前は永田安太郎の後援会「十五日会」にちなんで付けられた[29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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