内海 桂子
内海桂子・好江(1955年。右が内海桂子)
本名安藤 良子(あんどう よしこ)
生年月日 (1922-09-12) 1922年9月12日
(戸籍上は1923年1月12日)
没年月日 (2020-08-22) 2020年8月22日(97歳没)
出身地 日本・東京都台東区浅草
血液型A型
言語日本語
方言江戸弁
コンビ名内海桂子・好江
1958年 第4回NHK新人漫才コンクール優勝
1961年 芸術祭奨励賞受賞
1980年 日本芸能実演家団体協議会功労賞表彰
1982年 芸術選奨文部大臣賞受賞
1987年 第15回日本放送演芸大賞功労賞受賞
1988年 花王名人劇場功労賞受賞
1989年 紫綬褒章受章
1990年 第7回浅草芸能大賞受賞
1994年 第45回放送文化賞受賞
1995年 勲四等宝冠章受章
2001年 第1回笑芸人大賞受賞
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内海 桂子(うつみ けいこ、本名:安藤 良子(あんどう よしこ)、1922年〈大正11年〉9月12日[注釈 1] - 2020年〈令和2年〉8月22日[2])は、日本の芸人、漫才師、女優。漫才協会名誉会長、マセキ芸能社所属。 内海好江と約半世紀に渡って音曲漫才コンビ内海桂子・好江(1950年 - 97年)を組んで人気となった。今村昌平との縁で横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)の専任講師も務めた。 桂子の当時の相方と好江の母親が兄弟弟子という縁で、当時14歳の好江を預けられる形でコンビを組んだ[3]。好江とは14歳差で血縁関係はない。 好江の没後は漫才協団会長として東京演芸界を率いる傍ら、最古参の現役ピン芸人として都々逸や漫談、「名鳥名木 何の木に留めた」、「○○尽くし」などの軽口もこなす。笑組、ナイツ、ロケット団ら協会所属の若手の舞台に客演したり、デーブ・スペクターらと余興で漫才をする場合もある。2011年(平成23年)8月7日に放送された『笑点』には、あした順子とコンビを組んで出演。死去報道後初となる2020年8月30日の放送の最後には、追悼映像が流された。また、翌週の9月6日の放送では、追悼企画として桂子と好江による生前の漫才の映像が流された。 桂子・好江の漫才コンビ時代から時流に敏感で、舞台でタイムリーな話題を織り交ぜているのは勿論、公式HPやブログを立ち上げ自らの文章で更新する(共に2012年時点で現存はするものの更新していない)などチャレンジ精神も旺盛。2010年8月からはTwitterのアカウントを取得し、自らの言葉でツイートを1日数回程度の割合で行っていた[注釈 2][4]。内海は戦時中に満州などの戦地へ慰問し、それゆえ毎年8月になると必ずTwitterに広島・長崎への原爆投下や終戦への思いを投稿していた[5]。 フリーアナウンサー・大沢悠里からは、桂子が実母と同年代生まれであることから「おっかさん」と頼られ、桂子も夫・成田常也からの求婚の際には「どうだかね」と相談し「いいんじゃないの、おっかさん」とアドバイスされるなど、よき関係を続けていた。『大沢悠里のゆうゆうワイド』の投稿コーナー「お色気大賞」では、話の終わりのおちゃらかしに桂子のお説教が放送されることがあった[注釈 3]。 2020年1月中旬まで漫才協会の公演に出演していたが、同月末から体調を崩し入院。一時は回復しリハビリにも励んだが、コロナの影響で見舞いが禁止となり、4月には夫の成田常也も脳出血で入院。それにより、Twitterも4月14日を最後に更新がなくなっていた。 2020年8月22日23時39分、多臓器不全のため、東京都内の病院で死去[6][7][8]。97歳だった。遺族の意向で27日に近親者のみで密葬が行われ、死去の一報は、長年付き合いがあったスポーツニッポンが葬儀翌日の28日に裏一面と芸能面を使いスクープした。墓所は東京都台東区の行安寺[9]。戒名は「桂雲院粋譽良光大姉(けいうんいんすいよりょうこうだいし)」。「桂」は芸名の桂子、「良」は本名の良子からそれぞれ取られ、「粋譽」には粋な人生を称える意味が込められている[10]。 2022年4月15日、本人の死去以降は更新されることがなかったTwitterアカウントに突然「菜の花や 月は東に 日は西に」という投稿があった。ファンからは驚きの声が上がったが、その後「@utumikeiko」だったIDが、「@funnylilcats」に変更され、桂子が10年間投稿してきた3992ツイートが全て閲覧できない状態になった。その後は子猫の画像がアップされるようになり、ユーザーからは「乗っ取り被害」を指摘する声が上がっている[11]。
来歴・人物
年表
1922年 両親の駆け落ち先の千葉県銚子市にて出生、東京市浅草(現:東京都台東区浅草)で育つ。
1923年 当時の深川区森下にて関東大震災に遭遇[12]。両親と共に着の身着のままで千葉県印旛郡木下町(現・印西市)の父方の親戚を頼って木下までずっと歩いて避難[12][13]。しかし、母親は働かない父親に愛想を尽かし、桂子を連れて木下の親戚宅を出て東京に戻る。そのため、父の顔を知らないままで育つ[13][14]。父はそのまま行方不明。栄養不足もあり、子供の頃から右目はほとんど見えなかった。
1930年 尋常小学校3年時に、神田錦町の蕎麦屋「更科」に子守り奉公に出される[14]。
1935年 坂東小三寿らの手ほどきで三味線や日本舞踊を学んでいたところ、舞台からお呼びが掛り始める。
1938年 高砂家と志松・雀屋〆子
1941年 と志松との間に長男誕生(20歳、事実婚)。
1942年 と志松とコンビ解消。三枡家好子の芸名で遊芸稼業鑑札取得。女子勤労挺身隊北支慰問班に加わり、奥満州まで巡業。