内村静子
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。
出典検索?: "内村静子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年1月)

内村 静子(うちむら しずこ、1874年(明治7年)5月20日 - 1945年(昭和20年)2月8日)は、内村鑑三の最後の妻(4番目)であり、内村の活動が最も充実した時期(1892年 - 1930年)を内助の功で支えた人物である。娘ルツ子の死後に結成されたモアブ婦人会の会長を終生務めた。

鑑三は妻について「従順・謙遜・柔和を備えた守護天使である」と述べている。また、「しずは内村の家に福を持って来た。」とも常々述べていた。[1]「しず」[2]、「シズ」[3]「静」[4]とも表記される。
生涯
初期

1874年(明治7年)京都の旧岡崎藩士で裁判所判事の父岡田透と母好子の次女として、静岡に生まれる。[5]その後、父親の転勤に伴い京都に住む。
結婚夫の鑑三と共に

兄岡田寛の紹介で内村鑑三と見合いをし、1892年(明治25年)のクリスマス、18歳の時に、内村と結婚した。夫の鑑三は32歳であった。静子は穏やかでやさしい女性で、以後38年間内村鑑三の、内助者になった。翌1893年1月に夫と共に教会学校を開催した。[6]4月より熊本英学校の教師に就任した夫と共に熊本に行った。熊本時代に夫と2人で撮影した写真が残されている。[7]8月末にまた夫と共に京都に戻り、1894年(明治27年)より京都で日曜学校を再開した。

1894年(明治27年)3月19日に静子は長女ルツ子を京都で産んだ。夫鑑三は二女として役所に届ける。その時、初めて最初の妻の浅田タケとの長女ノブの存在を知る。[8]夫と共に名古屋に居住した。夫が『萬朝報』の記者に就任したのをきっかけに1896年(明治29年)9月東京角筈に転居した。夫は、角筈の聖人と呼ばれ、聖書研究に没頭することになる。1897年(明治30年)11月11日に東京で祐之を生んだ。

1900年(明治33年)に夫鑑三が個人雑誌『聖書之研究』を創刊する。『聖書之研究』と鑑三の著書を発行する出版社として聖書研究社を設立すると、静子は事務員として働いた。
モアブ婦人会

1907年(明治40年)11月には一家で淀橋町内の角筈から、柏木に転居した。柏木で長女ルツ子が女学校を卒業した直後の1911年に原因不明の病に倒れた。静子の不眠不休の看病にもかかわらず、1912年(明治45年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。ルツ子の死は静子と夫鑑三を大変悲しませたが、ルツ子の闘病を通して静子の信仰は強まった。[9]1929年クリスマスのモアブ婦人会

ルツ子の死後、1913年(大正2年)1月12日の召命記念日に、聖書研究会の会員の夫人や姉妹など内村家にゆかりのある婦人が集まり、鑑三の主唱でモアブ婦人会が結成された。静子はモアブ会の会長として、会を終生リードした。[10]

1917年(大正6年)実家の母好子と透が死去する。実家の両親の元に預けられていた、た弟の八雲の遺児の八郎と花枝を引き取る。[11]岡田家を整理して得た資金で内村家の東南側に室を建てて住まわせた。

1923年(大正12年)9月1日、夫の不在中に柏木で関東大震災に被災するが、静子ら留守中の家族は無事で、家の被害はわずかだった。1924年11月に長男祐之が美代子と結婚する。静子(前列右)と夫鑑三(前列左)、息子祐之(後列右)とその妻美代子(後列左)、1924年12月

1927年(昭和2年)9月息子祐之が北海道大学医学部教授に就任すると、夫鑑三が単身で北海道に渡る。翌年、1928年(昭和3年)に静子も女中を伴って7月から9月まで滞在する。1930年(昭和5年)3月28日に長男祐之夫妻と共に柏木の自宅で夫の臨終を見守った。夫の死後静子は大病を患い入院する。
晩年

1931年(昭和6年)夫の死から1年後に札幌に家を建てて、住み込みの看護婦と生活する。1936年(昭和11年)に息子祐之一家が東京帝国大学に転勤して、目白に家を建てて住む。[12]静子も東京に来て同居する。[13]

1944年(昭和19年)早春に、空襲を避けるために埼玉県の毛呂病院(現・埼玉医大)の傾斜地にあった住宅に疎開する。1945年(昭和20年)2月4日、寒い朝に高血圧で倒れた。祐之と病院の人たちの看病のかいもなく、2月8日に死去した。遺体は飯能の火葬場で荼毘に付された。2月17日に東京で葬儀が行われるが、前日が東京初空襲で厳戒態勢の中で葬儀が行われた。空襲の合間に、遺骨は多磨霊園の内村鑑三の墓に埋葬された。[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef