この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "掌典職"
掌典職(しょうてんしょく)は、日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門である。宮中三殿においてその職務を行う。現在の掌典長は、元警察官僚で前侍従次長の加地正人。
戦前、宮内省の外局として国家機関に位置付けられていた。 明治4年(1871年)、宮中三殿などで行われる皇室祭祀を行う役職として、神祇省に大中少の掌典が設置された[1]。 式部寮 明治40年(1907年)10月31日、「宮内省官制」(明治40年皇室令第3号)が制定された[2]。このうち掌典職次長についての規定は、以下の三条である。第三十三條 式部官ハ二十八人内八人ヲ勅任二十人ヲ奏任トシ名譽官ト爲スコトヲ得 典式及接待ノ事ヲ分掌ス すなわち、「典式」として式部職の所掌とされ、式部職に掌典部が置かれ、掌典職が祭事を司ることが規定され、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補を置くことが定められた。各職掌と定員は次の通りである。 「掌典職官制」(昭和14年皇室令第4号)により、宮内省に掌典職が置かれ、掌典職には、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典、掌典補、事務官及び属を置くことが定められた。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴う同省の廃止(宮内府への移行)により、掌典職も国家機関としては廃止された。 その後も皇室費の内廷費をもって人件費に充てられる職員が置かれる。現在は、宮内庁職員(国家公務員)ではなく、天皇の私的使用人としての性格を有する「内廷職員」と呼ばれている[3](皇室に直接雇用されている存在)。 1975年(昭和50年)以後伊勢の神宮や勅祭社における祭典では、天皇の使者である「勅使」をつとめる。 現行の職制および定員は以下の通り[1]。 『官報』のほか、『皇室事典』, p. 587, 「掌典長」も参照。 代肖像画人物任命退任出自備考
神祇省掌典
式部寮掌典
宮内省式部職掌典部
第三十四條 式部職ニ掌典部及樂部ヲ置ク
掌典部ニ於テハ祭事ヲ掌リ樂部ニ於テハ樂事ヲ掌ル
第三十五條 掌典部ニ左ノ職員ヲ置ク
掌典長
掌典次長
掌典
内掌典
掌典補
掌典長ハ一人勅任トス部務ヲ掌理シ所部職員ヲ監督ス
掌典次長ハ一人勅任又ハ奏任トス掌典長ヲ助ケ掌典長事故アルトキハ其ノ職務ヲ代理ス
掌典ハ八人奏任トシ名譽官ト爲スコトヲ得祭事ヲ分掌ス
内掌典ハ六人掌典補ハ八人共に判任トス祭典ニ從事ス ? 『官報』第7304号(明治), 「皇室令第三号」
「掌典長」の定員は1名、勅任官とされ、皇室祭祀に奉仕し、掌典部・掌典職の事務を掌理し、所部職員を監督する。
「掌典次長」の定員は1名、勅任官または奏任官とされ、掌典長を補佐し、掌典長に事故があるときはその職務を代理する。
「掌典」の定員は8名、奏任官(名誉官とすることもできた。)とし、祭事を分掌する。
「内掌典」の定員は6名、判任官とし、祭事に従事する。
「掌典補」の定員は8名、判任官とし、祭事に従事する。
なお、「内掌典」は女性が就任する官職である。
宮内省掌典職
掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補は、宮内省式部職掌典部時代と同様の職掌である。
「事務官」は奏任官として掌典職の庶務を掌り、「属」は判任官として掌典職の庶務に従事していた。
内廷機関としての掌典職
「掌典長」:1名。
「掌典次長」:1名。掌典より選任。
「掌典」:6名(うち1名が掌典職次長に就任)。
「内掌典」:5名。
「掌典補」:式部官補が兼務。
「出仕」
人物
歴代掌典長
1九条道孝1884年10月03日[4]1898年09月10日[5]旧摂関家・九条家(公爵)麝香間祗候に転任。
2岩倉具綱1898年09月10日[5]1915年12月27日[6]旧羽林家・岩倉家(公爵)宮中顧問官に転任。
3九条道実1915年12月27日[7]1933年01月19日旧摂関家・九条家(公爵)掌典次長より昇任。
在任中に薨去。
4三条公輝1933年01月28日[8]1945年11月10日旧大臣家・三条家(公爵)掌典次長より昇任。
在任中に薨去。
-坊城俊良1945年11月10日[9]1945年11月17日[10]旧名家・坊城家(伯爵)掌典長事務取扱
(掌典次長。)
5賀陽宮恒憲王1945年11月17日[10]1946年02月25日[11]伏見宮系・賀陽宮家(皇族)唯一の皇族出身掌典長。
6徳大寺実厚1946年02月25日[12]1946年08月12日[13]旧清華家・徳大寺家(公爵)
7甘露寺受長1946年08月12日[14]1959年05月21日旧名家・甘露寺家(伯爵)明治神宮宮司に転任。
Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef