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生誕1916年8月28日
日本 静岡県静岡市
死没 (1990-08-30) 1990年8月30日(74歳没)
日本 奈良県奈良市
研究分野物理学
研究機関大阪大学
プリンストン高等研究所
帝塚山大学
出身校大阪帝国大学
主な業績ゲージ場の創設
主な受賞歴重力研究財団賞(1964年)
勲二等旭日重光章(1989年)
プロジェクト:人物伝
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内山 龍雄(うちやま りょうゆう、1916年(大正5年)8月28日 - 1990年(平成2年)8月30日)は、日本の物理学者(理論物理学)。理学博士(大阪大学・論文博士・1951年)。大阪大学名誉教授。重力場を含む一般ゲージ場の創設者である。勲二等旭日重光章受章者。 1954年ごろまでに、楊振寧、ロバート・ミルズとは別に重力と電磁力を結び付ける一般ゲージ理論(非可換ゲージ理論)の研究を完成させていた。同年京都大学基礎物理学研究所でのワークショップで発表したものの、反応は否定的で支持を得られなかった。( L O'Raifeartaigh"The Dawning of Gauge THeory"Princeton Univ.Press,p208-209, 『龍雄先生の冒険』窮理舎(痛恨の記))国外では、ヴォルフガング・パウリが1953年には、非可換ゲージ理論を完成させていたが、こちらもゲージボソンに質量を与える方法が分からないという理由で論文発表を控えていた[1][2]。 このため、1954年10月の楊とミルズの論文に対して発表が遅れ、プライオリティは得られなかった[3]。プリンストン高等研究所へ赴任直後に楊-Millsの論文を知り愕然とし、一時発表を放棄するが、気を取り直しゲージ場の一般論として論文をまとめ直した。1955年Julyに Physical Reviewに受理され、翌1956年に出版された。その後は、大阪大学において、一般相対性理論や場の理論の講義を通じて、後進の育成に努めた。
研究
ゲージ場
エピソード