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内山田洋とクール・ファイブ
別名前川清&クールファイブ(内山田没後)
出身地 日本 長崎県佐世保市 前川清・内山田洋
ジャンル歌謡曲
ムード歌謡
活動期間1967年 -
事務所ワクイ音楽事務所[1]→有限会社前川企画他
メンバー内山田洋(ギター)
前川清(ボーカル)
宮本悦朗(ピアノ・キーボード)
小林正樹(ベース)
岩城茂美(サックス・フルート)
森本繁(ドラム)
旧メンバー宮内タカユキ(ボーカル)
なかえいじ(ボーカル)
大沢允
西田涼馬
山上哲也
帆足新一(付き人)
内山田洋とクール・ファイブ(うちやまだひろしとクール・ファイブ)は、内山田洋が率いる歌謡グループ。メインボーカルは前川清。
オリジナルメンバー
内山田洋(うちやまだひろし、1936年(昭和11年)6月6日[1] - 2006年(平成18年)11月3日)、ギター担当。本名は内山田道生。福岡県出身[1]。AB型。福岡県立伝習館高等学校卒業[1]。
前川清(まえかわきよし、1948年(昭和23年)8月19日[1] - )、ボーカル担当。長崎県出身[1]。長崎南山高等学校卒業[1]。
宮本悦朗(みやもとえつろう、1948年(昭和23年)1月15日[1] - )、ピアノ・キーボード担当。長崎県出身[1]。長崎県立対馬高等学校卒業[1]。
小林正樹(こばやしまさき、1943年(昭和18年)1月1日[1] - 2024年(令和6年)2月15日[2])、ベース担当。長崎県出身[1]。A型。長崎県立平戸高校卒業。
岩城茂美(いわきしげみ、1942年(昭和17年)1月5日[1] - )、サックス・フルート担当。熊本県出身[1]。
森本繁(もりもとしげる、1942年(昭和17年)10月23日[1] - )、ドラム担当。鹿児島県出身[1]。
オリジナルメンバーは全員九州出身。
元々ジャズ、ラテンなど幅広いレパートリーを持つバンドであり、テレビで演奏する機会は少なかったもののコンサートでは各自のパートの楽器で独奏するコーナーが必ず存在していた。
ボーヤを務めていた帆足新一は、後のゆーとぴあ・ピースである。また、ボーヤであった沼尾健司(通称“ケン”)は『スター誕生!』(NTV系)第1回チャンピオンに輝くも、決勝大会を断念した。
略歴
1967年9月 - 長崎市内のグランドキャバレー『銀馬車』の専属バンドとして結成。競合店『十二番館』の専属バンドは中井昭・高橋勝とコロラティーノで、『思案橋ブルース』で1年早く世に出た。
1968年 - 佐世保のナイトクラブ歌手として頭角を現わしていた前川が、メインボーカルとして参加。自主制作した『涙こがした恋』や『西海ブルース』が地元民放ラジオや有線放送で評判となる。
『ロッテ 歌のアルバム』の公開収録で長崎を訪れた東京パンチョスのチャーリー石黒が、長崎放送の接待で『銀馬車』に立ち寄りクール・ファイブの生歌に触れ、その場で日本ビクター(RCA事業部、後のアリオラジャパン)への紹介を約束した。
1969年2月 - 『長崎は今日も雨だった』でメジャーデビュー。当時のメンバーは内山田、岩城、小林、森本、宮本、前川。
当初メジャーデビュー曲には『西海ブルース』が予定されていたが、プレス直前に作詞・作曲者の尾形義康が翻意し破談になったため、『銀馬車』のマネージャーだった吉田孝穂(筆名:永田貴子)が、自ら急造した詞を北海道放送のディレクターだった新居一芳(筆名:彩木雅夫)に手渡して完成した。
この『西海ブルース』は、クール・ファイブが大御所に成長した1977年、歌詞を吉田が補作した上で改めて吹き込まれている。
1969年12月 - 第11回日本レコード大賞新人賞受賞。第20回NHK紅白歌合戦に初出場。
1975年4月 - フジテレビ系『欽ちゃんのドンとやってみよう!』に、“コント54号”のひとりとして起用された前川とともに全員がレギュラー出演。持ち歌を歌うコーナーを持っていたほか、萩本欽一らとのやり取りで各メンバーのコミカルな面や個人名が知られるようになり、広くお茶の間に親しまれた。
1987年 - 本来ポップス指向が強く演歌嫌いを公言していた前川が、自然気胸を患ったのを期に脱退。低迷状態に陥る。
1992年 - 大幅なメンバーチェンジ。宮本と小林が脱退し、大沢允、西田涼馬、山上哲也が加入。