内山まもる
[Wikipedia|▼Menu]

内山 まもる
本名内山 守
生誕
1949年1月16日
日本茨城県鹿島郡(現・鉾田市
死没 (2011-12-01) 2011年12月1日(62歳没)
日本東京都
職業漫画家
活動期間1968年 - 2011年
ジャンル少年漫画 青年漫画
代表作『ザ・ウルトラマン
リトル巨人くん
テンプレートを表示

内山 まもる(うちやま まもる、1949年1月16日[1] - 2011年12月1日)は、日本漫画家。男性。茨城県鹿島郡(現在は合併により鉾田市)出身[1]。本名は内山守[1]。趣味はゴルフ釣りオートバイカメラアウトドア

代表作に『ザ・ウルトラマン』、『リトル巨人くん』など。
略歴

農家の長男で跡継ぎを期待されていたこともあり、漫画家になるつもりはなかった[2]。だが、中学卒業時に自分の漫画を姉が勝手にタツノコプロへ応募したのがきっかけで採用され、2年間という約束で親に許しをもらって上京し入社する[2]。タツノコではアニメ部門に配属され、当時の九里一平(第3代社長)のもとで作画スタッフとして2年間働く。

在籍中に『希望の友』を出版していた潮出版社から、漫画を描かないかと誘われる[2]。当時のタツノコはアルバイト禁止だったことから迷うも、知人女性の「やるべき」との助言により、内緒でタツノコのメンバーに手伝ってもらいながら32ページを描き上げ、『希望の友』誌に発表した『チェ・ゲバラ』で1968年にデビューする[2]。その後、小学館からの誘いで『ジャンボーグA』の連載を開始。本人はこれが漫画家としてのデビューであると語っている[2]

小学館からは再度誘われ、「ウルトラマンを描かないか」と言われる。タツノコのライバルである円谷プロダクションの作品だったこともあり、連載開始と同時にタツノコを退社して独立する。当時は20歳になっており、約束の2年間を過ぎたので親が連れ戻しに来たが、結局はそのまま東京に残ったという[2]

小学館の学年別学習雑誌などで『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』などを描き、『レオ』終了後の1975年、『小学三年生』4月号から『さよならウルトラ兄弟』の連載を開始する[2]。この作品は後年に『ザ・ウルトラマン』と改題されて『コロコロコミック』に再掲載され、第三次ウルトラブームの一翼を担うことになり、内山も一気にブレイクする[2]

ウルトラ漫画の連載後は「人間を描きたい」と思うようになり、1976年から『コロコロコミック』でプロ野球漫画『リトル巨人くん』の連載を開始。これも同誌のみならず『小学館の学習雑誌』でも連載され、単行本15巻を数えるヒット作となる[2]。1979年から『リトル巨人くん』に引き続いて『コロコロコミック』にて『燃えろ!クロパン』、『週刊少年サンデー』にて『番外甲子園』、『冒険王』にて『ひょうたん』『燃えよ甲子園!鷲と鷹』といった野球漫画を連載している。

1983年頃からは『漫画アクション』に発表した野球漫画『いごっそう甲子園』などで青年誌に進出し、作家の高橋三千綱と『こんな女と暮らしてみたい』『風と剣』『おれは女が嫌いだ』『プロゴルファー』などのコンビ作を発表した。それ以後も、ゴルフ漫画などを多く連載した。

2007年から2010年まで『てれびくん』にて新作ウルトラ漫画を連載し、2009年12月12日公開の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』には『ザ・ウルトラマン』のファンだった監督の坂本浩一の要望により、光の国の住人役としてゲスト出演した。

晩年は『デッドにピンを!』(『GOLFコミック』)や『元祖江戸前 寿し屋與兵衛』(『週刊大衆』)などを連載していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:33 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef