内務班
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年1月)

内務班(ないむはん)は、軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位である。
大日本帝国陸軍

大日本帝国陸軍中隊等に平時において置かれた組織で、兵舎の中で下士官兵(明治・大正・昭和初期までは「下士卒」と呼んだ)が生活をする場合の最小単位であった。
概要

将校及び古参曹長以上の下士官は営外居住で、兵営の外の自宅(外地では官舎もあり、また入居者が維持する若年幹部用の寮もあった。その場合は営内の一画に別棟で設けられている場合が多い。憲兵は通常営内居住であるべき下士官兵であっても隊外に下宿することがある。)で生活し兵営に通勤していたが、一般の下士官兵は営内居住が義務付られており、中隊に数箇ある内務班と称する居住単位に分かれて生活していた。所属中隊外に勤務場所を持つ(部隊本部や医務室、工場など)勤務者も必ず自分の寝台を所属中隊の内務班に持っており、食事と睡眠は内務班に帰って摂るのが原則であった。食事、睡眠、被服・携帯兵器の手入・保管、私物の保管、生活上の躾、朝晩の点呼は内務班で行われた。日露戦争以前は給養班と呼ばれており、給養とは主に食事・被服の配給を意味している。当時の外国軍隊も同様な営内居住組織を持っていた。下士官は兵の大部屋に同居せず、数名ごとに大部屋隣接の下士官室に起居していた。中隊附で内務班に所属しない営内居住の曹長は個室を与えられ、そこで起居していたが、古参の軍曹も空きがある場合は個室を与えられる場合があった。内務班は兵舎の真ん中にある廊下と向かい合わせにした部屋(兵14人程度を収容できる)2つで1個班とする説(建築規格からして1部屋の片方の壁際に寝台を間隔を含め7台置けるので)もあるが、実際には人数は決まっておらず、向かい合わせにした部屋を使わず1部屋の場合[1]もあり、様々であった。動員時には部隊に於いて複数の臨時部隊を編成するため大量の応召兵が入隊して来てスシ詰め状態となり、蚕棚と俗称される2段寝台が使用されたり、それでも足りぬ時には寝台を取払い床に布団をぎっしり並べることすらあった。更に戦時の要員が増えると近所の学校や寺院、民家を借りて分宿することがあった。しかし平時にはカラの内務班スペースができていることが多く、そこに兵を集めて中隊長の訓話など学科(座学)や、天候が悪い時の屋内教練が行われた。班長は軍曹であり、軍曹の下に班附として伍長が二人付いた。
兵舎の配置

長方形の箱型2階建木造が兵舎の基本形態で、その規格は陸軍省で決めていたが、明治時代からの古い兵舎や麻布3連隊(東京市麻布区にあった歩兵第3連隊)のような3階建以上の鉄筋コンクリート造、荷運搬用エレベーター付の近代的兵舎もあった。しかし大抵は木造2階建瓦葺の規格兵舎で、通常は大隊ごとに4箇中隊が入る大きなものが主流だった。営庭を囲むように兵舎と倉庫、工場、砲廠などが並んでおり、正門に近いところに部隊本部があるのが標準的な兵営の配置であったが、必ずしもその通り画一的になっていたとは限らず、古い連隊では江戸時代の城の門を正門としている隊もあったり、兵舎の並び方も部隊により様々なヴァリエーションがあった。一般の2階建木造兵舎の内務班のスペースは各階に設けられていたが、1階には内務班の他に中隊長室・将校室・特務曹長室・曹長室・当番控室・事務室・兵器庫・被服庫・陣営具庫・雑庫などがあった。一般に木造兵舎には数箇中隊が入居していたが、1箇中隊しか入らない小さい兵舎(後から増設された歩兵砲中隊や機関銃中隊、通信隊などが主に入居)もあり、必ずしも画一的ではなかった。営庭に向かった方角を舎前と云い、こちらが玄関口である。厠と面洗所は舎後(兵舎の裏側)に兵舎から離れて建ててあり、そこまでは裏口から石敷・屋根附の渡廊下があった。炊事場、浴場と物干場(『ぶっかんば』と読む。現在の自衛隊でも同じ)は各中隊共同のものがあった。炊事場は定員の多い歩兵部隊などは複数ある場合もあり、1号炊事、2号炊事などと呼んだ。衣食住車両馬匹に関する建物は兵舎の裏側に位置しており、兵営の正門から入ると先ず部隊本部が見え、営庭に進むと周囲に兵舎が見え、他の建物はその背後にあり、弾薬庫は更に遠くに隔離された場所に配置されているという風景である。
兵舎の内部配置

長方形の兵舎の真ん中には、長辺の左右方向に貫通廊下があり、廊下の両側に壁で仕切った居住用の部屋があって、廊下を挟んで対面する2部屋[2]が1内務班となっていた。部屋の廊下に面した側に壁は無く、出入口の左右に小銃(近衛騎兵は槍が加わる)を並べて置く素通しの横長の銃架がしつらえてあった。営庭に向いた部屋を舎前側、反対側の方を舎後側と呼び、それぞれ硝子窓があり、各部屋の壁際に寝台を並べた。多くの部隊では足が壁に向くように枕を置いたが、これは就寝中の兵の顔を確認するためにそうしてあった。部屋の壁面の上方に長い棚があって、各兵が自分の被服・背嚢・手箱(私物入れ)を整頓して置き、棚の下方に打ってある釘に軍靴・雑嚢などの装具類を吊るした。その置方は決まっており、一糸の乱れも許されず常に整理整頓を心掛けるように指導された。寝具(掛布団は無く毛布)は寝台の上に畳んで置いた。寝台の列に挟まれた中央のスペースには長椅子と長机があり、そこで食事、兵器・被服手入などを行った。部屋の窓際には兵器手入用の油脂容器等を置いた机があることが多い。適当な場所に痰壺や煙管入(吸殻入)が置かれ、照明は天井から吊るした裸電球である。カーテンはなかった。冬にはダルマ・ストーブが置かれ、夏には各人蚊帳を吊った。軍学校・酷寒地を除き部屋と廊下の間には扉はなく素通しである。

消燈時には中隊の兵から交代当番で不寝番を出し、中隊の出入口や兵舎の要所に立哨させ、また各内務班を巡回させた。その監督は中隊の週番士官(夜間泊込み)が行った。早朝に出勤する炊事当番などは、この不寝番の兵が目覚し代りをして起こした。中隊には個人所有のもの以外は時計がなく、必要な通知は部隊本部で吹くラッパ号音によって行った。いわく起床、点呼、食事、集合、消燈の類である。命令系統にある上官、即ち中隊の兵が所属する各級団隊長(師団長から始まって中隊長まで)の官姓名を書いた紙は、これを暗記させるため内務班や1階の玄関口にある石廊下と呼ばれる石敷きの土間に、中隊の標語と共に貼ってあった。軍隊では個人のプライバシーはなく、手箱(私物箱)の中身や書信も上官が勝手に検査でき、居室も立入ができた。兵が遠慮なく閉じこもれる唯一の場所は厠(便所)の仕切の中であった。
班内の生活
点呼

点呼では、全班員が班内に整列し、週番下士官を帯同して巡回してくる週番士官に対し班長が員数報告をすることになっていた。

班長「気を付け!」と号令を掛け、週番士官に室内の敬礼をし、「第〇内務班、総員〇〇名、事故〇名、現在員〇〇名、番号!」班の下士官兵順に番号を唱える。班長「事故は炊事〇、厩〇、医務室〇、計〇名異常ありません」云々の報告を受けて、員数の確認をするのである。

こうして兵が現在どこに居るかは常に完全に把握されていなくてはならなかったので、兵が所用で内務班を離れる時は、行先(要すれば理由も)を上級者に告げる必要があった。特に初年兵(入隊1年目の訓練中の兵)はこれを厳しく躾けられた。トイレに行くにも「〇〇二等兵、厠(かわや)に行って参りますっ」と古参兵に大声で告げてから行くのである。しかし古参兵(在営二年次以上)になると点呼の時にそこに居ればよいので、行先も告げず適当に兵営の中をうろつきまわることができた。
休暇と休業、外出

日曜と正月は軍の官衙も部隊も休業で将校は週番を除いて出勤せず、営内居住の下士官兵は外出ができた。下士官は外泊ができたが、兵卒は正月休業以外は許可されない。許可は中隊の人事掛が出した。正月は実家に帰省したが、日曜は大抵が盛場に出かけ、食事をして映画演劇を鑑賞したり、遊郭で遊んだりした。帰営の刻限に遅刻すると営倉に入れられた。

公用の外出を命ぜられると公用腕章を着け営外に出た。

病気になると、軍医から休業を命ぜられ、内務班に居残って療養に専念した。熱発すると昼間でも就寝を許可された。重症となれば部隊の医務室に入室となり、さらに医務室で手におえない場合は最寄りの衛戍病院(駐屯地の部隊が合同で維持する病院、のちに陸軍病院と改称)に搬送された。

食事は入隊年次の若い兵(たいてい初年兵、初年兵が居ない場合は手すきの兵)が「飯上げ」と称し、中隊週番上等兵の指揮のもとに隊伍を組んで部隊炊事場に取りに行き、主に食缶というバケツ(明治の頃には桶)に入れて内務班に持ち帰った。手で提げるほか、天秤棒や大八車、昭和に入るとリヤカーなどが使われた。食事の配膳・分配・食缶の洗浄と炊事場への返納なども内務班ごとに行った。下士官は食事を隣接の下士官室で摂るので、初年兵が盆に載せそこまで持参した。下士官室には扉があり、内務班の部屋を小規模にしたような造りで、寝台、棚などの他に事務机と一人掛椅子がそれぞれに用意されていた。班長の軍曹と班付の伍長が2?3人で居住していたが、曹長は一人で1室に居住しており、古参軍曹は部屋に空きがあると、やはり一人部屋となっていた。日常的には下士官は食事をそれらの自室で摂った。稀に下士官が兵の食卓について共に食事することがあった。食事作法の躾も厳しく、箸の上げ下ろしなども古兵が指導した。これは演習で民間に宿泊する際に国軍の兵士として見苦しくない行儀作法を行うようにするためである。部隊の大食堂というものは無い。外国軍隊では中隊ごとに食堂を持つところが多い。内務班での食事が終わると初年兵が食器を洗い、食缶を炊事場に返納した。食缶がきれいに洗われていないと、炊事当番の兵隊から叱責された。

食事献立は炊事場から出た案を部隊本部の経理委員が見て決めるので、部隊によりその時どきの食糧事情により異なっていたが、兵食の定量が陸軍省により全軍一律に定められていて、摂取カロリーに過不足の無いようになっていた。食材は経理委員が駐屯地の民間人より購入した。朝食・昼食とも一汁一菜が多く、夕食は肉類も出た。たまに洋食が出ることもあり、民間で貧しい暮らしをしていた者には初めて口にしたメニューもあったという。正月には雑煮などおせち料理が出、部隊記念日には酒が配給された。営外に長期間の演習に出る時には携帯口糧(缶詰、乾麺麭など)を支給されたが、隊長の命令がないと食べられなかった。飯盒炊爨の訓練もあったが、大抵は部隊から握飯と沢庵などが届けられた。

炊事は部隊本部の經理委員の配下にある炊事場でまとめて行われ、下士官兵に睨みの利く古参軍曹の炊事班長が取り仕切っていた。炊事軍曹を経験すると曹長への進級が近いとされていた。調理の専門教育と炊事専門兵は存在しなかった。炊事班長は食事伝票の整理や出入りの民間業者の相手と云った事務作業に忙殺されており、実際の調理に携わる事はない。調理作業の実際は各中隊から送り込まれてきた「炊事当番」という名の兵隊が行った。入営するまで包丁を握ったことのない者が多く、行届いた料理はできない。いったん炊事当番を命ぜられると除隊までそのまま続ける場合がほとんどであった。起床ラッパの鳴る遥か以前から炊事場に出掛け、夜は遅くまで内務班に帰れず、上等兵にもなれないため、あまり人気のある仕事ではなかった。飯は蒸気釜で焚いたので、大きなボイラーが炊事場にあり、それで浴場の湯もまかなった。炊事場のそばに浴場が附属しており、炊事班長はまた浴場の管理者でもあった。

将校は炊事場の兵食は食べず、将校集会所で毎昼、私費の会食をし、民間業者の仕出しに頼ることが多かった。営外居住者(将校准士官、古参の曹長)が炊事場の兵食を摂った場合は、食事伝票が切られて炊事軍曹に回り、その代金が俸給・月給から差引となった。営内居住の下士官兵の食事は無料であるが、その分だけ月給が安くなっていた。

酒保は兵用のものがあって、部隊本部の酒保委員が管理運営していた。酒類(日本酒、ビール)、飲物(みかん水・瓶入コーヒーなど)、スナック(アンパン・大福・稲荷寿司・おでん・饂飩など)、日用品(手拭・絵葉書・便箋・鉛筆・チリ紙・褌など)の雑貨を販売しており、酒保当番の兵が店番をする部隊もあれば、民間業者が入っているところもあった。初年兵は最初の訓練期間中(大抵は1期検閲まで)は立入禁止となっており、それが解禁となっても怖い古年次兵が充満しているところには入り難く、寝台戦友の古兵が代りに菓子を買ってきて初年兵の寝台の毛布の下に黙って入れて置いたりした(消灯後に毛布を被って密かに食べられるように)。


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