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やノートページでの議論にご協力ください。内乱の一世紀(ないらんの1せいき)とは、共和政ローマ後期における、紀元前133年のティベリウス・グラックスとローマ元老院(セナトゥス)の対立によるグラックスの死から、紀元前30年にオクタウィアヌスがプトレマイオス朝を滅ぼし地中海世界を統一するまでの、およそ100年をさす。英語などでは共和政ローマの危機(Crisis of the Roman Republic)と呼ばれる。
グラックス改革以降の激化する政争、同盟市戦争の結果としてのイタリア半島統合、3度の内乱、東方世界とガリアの併合、地方司令官の中央への介入など、帝政ローマへと向かう最終段階と言える[1]
前史紀元前218年までのローマの拡張.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「・・・人の住むかぎりほとんどの全世界が、いったいどのようにして、そしてどのような国家体制によって、わずか五三年にも満たない間[注釈 1]に征服され、ローマというただひとつの覇権のもとに屈するにいたったのか、史上かつてないこの大事件の真相を知りたいと思わないような愚鈍な人、あるいは怠惰な人がいるだろうか。—ポリュビオス、『歴史』1.1.5-6(城江良和訳)[2]
ローマの起源は、ティベリス川の下流に定住していたラテン人が、紀元前8世紀から7世紀の間に、エトルリア人の影響で形成した都市国家の一つで(王政ローマ)、エトルリア系の王の支配下でラティウム同盟を従えるようになった[3]。ローマは紀元前509年、このエトルリアの王を追放して貴族による共和政を始め、2名の執政官(コンスル)を指導者として、定員300名の元老院が大きな力を持っていた(共和政ローマ)。紀元前494年には護民官(トリブヌス・プレビス)の制度も整えられ、平民(プレプス)も政治に参加していった。紀元前2世紀のローマの拡張
都市国家ローマは、ウェイイ併合、ラティウム戦争、サムニウム戦争を経て拡大した[4]。共和政後期まで、ローマ市民はほとんどが農民であり、その耕地は2から多くても8ヘクタールである[5]。彼らは同時に民兵として、兵役義務があった[6]。元老院によって動員が決定されると、インペリウム(指揮権)を付与されたコンスルやプラエトル(法務官)によって徴兵されたが[7]、装備は自弁であり、給料もなく、戦利品の分配がその代わりとされ、時代が下るにつれ、装備は支給されるようになったものの、カエサルの時代になってやっと、収入と言える給与が支払われるようになった[8]。サムニウム戦争の結果、イタリア半島の諸都市国家を服従させた[9]。
第一次ポエニ戦争(紀元前264年-241年)でカルタゴに勝利したローマは、更に勝利を重ねて紀元前167年には地中海全域に勢力圏を広げ、属州を保有するに至り、インペリウムを保持した司令官を派遣して支配した[10]。しかし、インペリウムを悪用する司令官に搾取された属州民が、不当利得返還請求を行うようになり、最初は元老院がケースバイケースで対応していたが、紀元前149年にその問題を専門に扱う常設審問所が設置された[11][注釈 2]。
紀元前139年にシチリア島で第一次奴隷戦争が起こると、紀元前133年から紀元前130年にかけてペルガモン王国の自称「王」アリストニコスがローマ支配に対し反乱を起こし、奴隷や貧農に呼びかけて拡大している。
展開
グラックス改革詳細は「グラックス兄弟」を参照例えば、クラッスス[注釈 3]、・・・わが国で最も雄弁であったのはティベリウス・センプローニウス(・グラックス)とガーイウス・センプローニウス(・グラックス)だと聞いたようにわたしは思うのだが、その彼らの父は、・・・国家の安寧を護る砦となったのである。それにひきかえ、・・・彼の息子たちは、父の賢慮のおかげで、あるいは祖父の武徳のおかげで、繁栄を極める国家を受け継いでおきながら、その国家を、君の言う国家のその輝かしい舵取りたる雄弁の力を借りて、微塵に粉砕してしまったのである。—キケロ、『弁論家について』1.38(大西英文訳)[13]
伝統的には、ハンニバルを代表とする敵との度重なる戦争によって、中小農民は農地を手放し、ローマ市へ流入して無産階級(プロレタリイ)となり、ローマ軍団の構成員が減少して弱体化したが、逆に富裕層は戦争で得た富と奴隷を使って、ラティフンディウム(大土地所有制)を行っており、グラックス改革はこの土地を再分配して中小農民を救うことを目指したと説明され、紀元前133年は、これまでの問題が爆発した歴史上の画期とされる(ただし、考古学的には古くから矛盾が指摘されている)[14]。
紀元前133年に護民官となったティベリウス・グラックス(グラックス兄)は、ローマの改革に着手するものの、元老院の反発に遭い暗殺され、紀元前123年には弟のガイウス・グラックスが護民官に就任して改革を再開するが、兄よりも急激な改革を目指したため、紀元前121年に反対派によって自殺、グラックス派は一掃され、様々な問題点が未解決のまま、「内乱の一世紀」が始まる[15]。