内丸_(盛岡市)
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内丸
大字
域内に所在する岩手県庁
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}内丸内丸の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度42分7.628秒 東経141度9分7.192秒 / 北緯39.70211889度 東経141.15199778度 / 39.70211889; 141.15199778
日本
都道府県 岩手県
市町村 盛岡市
設置1945年昭和45年)
面積
 ? 合計0.285397922 km2
人口(2022年6月末時点[1]
 ? 合計190人
 ? 密度670人/km2
郵便番号020-0023[2]
市外局番019(盛岡MA[3]
ナンバープレート盛岡
運輸局住所コード03500-0342[4]

内丸(うちまる)とは、岩手県盛岡市の町名[5]。丁番は持たない単独町名である。住居表示実施済み区域[6]。旧岩手郡のち南岩手郡仁王村の一部、旧盛岡市仁王字内丸に相当する[7][8]郵便番号は020-0023[2]。盛岡市の住民基本台帳によると2022年令和4年)6月末時点での内丸の住民は190人、世帯数は127世帯である[1]岩手県庁盛岡市役所など、岩手県や盛岡市の主要機関、盛岡地方裁判所岩手県警察本部、盛岡城址といった施設が所在し、昼間人口が多い官庁街としての役割を担う[5]
地理

内丸は盛岡市の西部に位置し、北で本町通と、東で紺屋町や中ノ橋町と、南東で肴町や下ノ橋町と、西で中央通や大沢川原と接する。

域内は、南部を盛岡城址やもりおか歴史文化館が占めており、北部をオフィス街が占め、中央部を飲食店が占めているため、住宅地は他地域と比べて少ない。
地形鶴ケ池(2024年4月末撮影)

鶴ケ池:盛岡城の内濠の名残[5]

亀ケ池:盛岡城の内濠の名残[5]

歴史

古くは、内丸は石間(いしあい)と呼ばれた岩石地帯であり、建武年間に南部信長により征服され、現在も南部信長の重臣である福士慶喜の慶喜館跡が残っている[7]

近代の頃の内丸は盛岡城の内堀北方に隣接する外郭の名称であり、現在の行政区域である内丸とは少し区域が異なり、元文城下図によれば、東は中津川を隔てて紺屋町や鍛冶町、川原本町に接し、西は外堀を隔てて日影門外小路に接し、北は本町や八日町に接していたとされる[9]。内丸はほぼ四方に堀と土手をめぐらせた要害の区画をなしており、東には中ノ橋門、北は大手御門、西は日影御門があり、それぞれの番所を通らなければ入らない地域であったがために町人地とは区切られていた[7]。また、藩主の南部家一門や600石以上の上級家臣の屋敷地であった[7][9]

明治維新後の明治4年盛岡藩は廃藩となり、盛岡城の外曲輪の土手・堀等の取り壊しを手始めとして、庶民の出入りが自由になり、内丸は官庁街や市街地として変貌した[7][10]。盛岡藩が廃藩となっても、岩手県域の自治の中枢であることにかわりはなく、広小路御殿跡に岩手県庁が設置された[10]
沿革

建武年間 - 南部信長がこの地を征する[7]

1636年寛永13年) - 南部重直が、内丸に御新丸と呼ばれる別郭を建てる[7]

明治4年

盛岡藩の廃藩に伴い、濠が埋められ、庶民の出入りが自由となる[7]

盛岡県庁が設置される[7]


明治5年

盛岡県庁が岩手県庁となる[7]

仁王村と上田村戸長役場が設置された[7]


1874年明治7年)

中ノ橋際に農工事業奨励のための、敷地2町7反ほどの試験所が設置され、後に歓業所と改称される[7]

盛岡城が切り崩される[7]


1876年(明治9年) - 仙台裁判所盛岡支庁盛岡警察署、医学校、盛岡師範学校などが設立される[7]

1879年(明治12年) - 南岩手郡役所が設置される[7]


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