内モンゴル独立運動(うちモンゴルどくりつうんどう)は、中華人民共和国の実効支配下にある内モンゴル(南モンゴル)における先住民族であるモンゴル人の独立運動のこと。モンゴル人による独立運動には全権独立を求めるものから高度自治を求めるものがある。目次
1 歴史
1.1 大清帝国からの独立
1.2 満州国・蒙古聯合自治政府
1.3 中華人民共和国
1.3.1 日本での活動
2 参考文献
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
歴史
大清帝国からの独立 1911年12月にモンゴルに独立建国されたボグド・ハーン政権の国旗 チベット・モンゴル相互承認条約(1913年1月11日締結) 大満洲帝国(1932年建国) 蒙古連合自治政府主席デムチュクドンロブ(徳王) モンゴル人の居住地域 1945年9月に内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国の国旗 モンゴル自由連盟党などが参加した「自由と人権アジア連帯集会」(2010年11月6日日比谷公園) 内モンゴル人民党旗
1636年に満州人が建国した大清帝国は満洲、モンゴル、チベット、東トルキスタン、中国本土におよぶ大帝国であった。満州人はモンゴル帝国の玉璽をモンゴル王族から受け継ぎ大清帝国を建国するという形をとり、モンゴル人と血縁関係を結ぶとともにモンゴル人を優遇していた。1906年に漢民族の孫文が「駆除韃虜、回復中華」を提唱し[1]、1911年に漢民族によって「駆除韃虜、恢復中華」をスローガンに辛亥革命が行われ、大清帝国は崩壊した。崩壊直前の1911年12月に外モンゴルではロシア帝国を後ろ盾としたモンゴル人諸侯によってチベット人活仏のボグド・ハーンを皇帝とする独立国家が樹立された(ボグド・ハーン政権)。1912年1月1日に漢民族によって中国本土に中華民国が建国されると臨時大総統に就任した孫文は漢人・満州人・モンゴル人・回族人・チベット人を一つに合わせて一国とする旨を宣言した[1]。
1913年1月11日、モンゴル人、チベット人はチベット・モンゴル相互承認条約を締結してチベット・モンゴルは清王朝から独立するとともに外部からの侵略に対して相互防衛を図ることとした[2]。外モンゴルのボグド・ハーン政権は内モンゴルにも勢力を伸ばしモンゴルは一時的に統一状態となったが、ロシア帝国が内モンゴルからモンゴル軍を撤退するよう圧力をかけたため、再びモンゴルは南北分裂に陥った。1915年にロシア帝国と中華民国によって外モンゴルのみの自治を認めるとした取決めがなされた。1917年にロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、1919年に中華民国は外モンゴルに軍を進めて占領した。1920年にソビエト連邦に抵抗するロマン・ウンゲルンが外モンゴルに白軍を進駐させて中華民国軍を追い出したことによってボグド・ハーン政権が復権したが、外国軍である白軍に反感を持つものたちの間に共産主義が浸透するようになり、モンゴル人共産主義者によってモンゴル人民党が設立されると、1921年にソビエトの衛星国としてモンゴル人民共和国が外モンゴルに建国された。
1921年に孫文は漢民族を中心として、満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族の四民族を全て漢民族に同化させて中華民族を形成することにより単一民族国家を組織する旨を『三民主義ノ具体的方策』で発表した[1]。1925年に孫文は中国民族の総数は4億人であるが外来民族である満州人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人は一千万人に過ぎないから中国人の大多数は全て漢人であり、同血統、同言語文字、同宗教、同風俗習慣を持つ完全な単一民族であるとする旨の『三民主義』講演を行った[1]。1929年、内モンゴル東部にロシア帝国が敷設した北満鉄道の権益をめぐってソビエト軍と中華民国軍が全面衝突する(中ソ紛争)。 1932年に関東軍が清朝皇帝であった溥儀を執政とした満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではチャハルのデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王公によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍
満州国・蒙古聯合自治政府