兼松株式会社
Kanematsu Corporation本社が入居するJPタワー
種類株式会社
市場情報東証プライム 8020
兼松株式会社(かねまつ、英: Kanematsu Corporation)は、日本の商社である[注釈 1]。 1889年(明治22年)に日豪貿易の先駆けとして創業。現在は、「電子・デバイス」、「食料」、「鉄鋼・素材・プラント」、「車両・航空」を中心とした4分野において国際的に展開する。かつては十大総合商社(三菱商事・三井物産・伊藤忠商事・丸紅・住友商事・日商岩井・トーメン・兼松江商・日綿実業・安宅産業)の一角をなした。 1990年代に入りバブル期の不動産投資の失敗により経営不振に陥ったため、取引銀行に1700億円の債務免除を要請、祖業の繊維や紙パルプ、不動産事業から撤退する。2007年には、インドネシアの天然ガス権益も手放し、IT・食品系統中心の専門商社化することにより経営再建した[2]。再建の結果、兼松の総資産は経営危機前の3分の1以下に激減した。 2020年現在の卸売業内での順位は、売上高はあらたに次ぎ24位[5]、総資産は長瀬産業に次ぎ16位の規模である[6]。 メインバンクは、かつては東京銀行と第一勧業銀行、現在は三菱UFJ銀行である。 創業者・兼松房治郎は自ら日本の近代化を推進すべく、大阪商船会社(現・商船三井)の設立に参加、また大阪毎日新聞(現・毎日新聞)を興すなど、「貿易立国日本」の礎を築いた。
概要
企業理念
創業主意
わが国の福利を増進するの分子を播種栽培す
われらの信条
伝統的開拓者精神と創意工夫をもって業務にあたり、適性利潤を確保し、企業の発展を図る。
会社の健全なる繁栄を通じて、企業の社会的責任を果し、従業員の福祉を増進する。
組織とルールに基づいて行動するとともに、会社を愛する精神と、社内相互の人間理解を基本として、業務を遂行する。
歴史
明治維新後
日本の近代化が進んでいた頃、当時関西実業界のリーダー的存在であった兼松房治郎は日本の貿易に疑問を抱いていた。『日本の繁栄には貿易の振興が不可欠であるのに、現状はその90%が外国商館で独占されている。本来この商権は我々が握るべきなのでは…』房治郎が注目したのがオーストラリアとの羊毛貿易。欧米文化が普及する中、毛織物需要も伸びているにもかかわらず、日本人が直接海外から羊毛を輸入する事業はまだなかった。房治郎はこの初めての日本人の手による羊毛直輸入に挑戦した。1889年(明治22年)、『貿易商権を日本人の手に』の理想のもと、『豪州貿易兼松房治郎商店』を開業。翌年にはオーストラリア・シドニーに支店を開設し、日本初の日豪直貿易を成し遂げた[注釈 2]。その後大恐慌などの困難にも直面したが、『日豪貿易を断絶させることは何としても避けねばならない』とし、兼松商店は活路を見出していった。房治郎の没後もその遺志は引き継がれた。社会貢献事業として神戸大学に兼松記念館、一橋大学に兼松講堂、そしてオーストラリアのシドニー病院には兼松病理学研究所が寄贈されるなど、日豪貿易の基礎を確立のみならず社会的にも大きな功績を残した。
第2次世界大戦後
財閥解体の命令を受け財閥系商社を中心に分社化を余儀なくされたが、1950年(昭和25年)以降は再び群小商社の統合が進められた。名門商社「江商」[注釈 3]が多角化と海外取引拡大に失敗し経営危機が表面化。当時、両社のメインバンクであった東京銀行の仲介により1967年(昭和42年)に合併し、兼松江商(KANEMATSU GOSHO)株式会社として新たな出発した(なお、現在使われている兼松の略称『KG』は、この社名の名残)。その後、戦後の日本経済の高度成長および産業構造の転換に対応して、繊維主体から脱皮。海外現地法人・関係会社の新設或いは増強といった商社の企業基盤の強化、取扱商品の多様化など、繊維や石炭の『貿易商社』から『総合商社』へと地位を着実に固めていった。
1960年代以降
「商社斜陽論」「商社冬の時代」という言葉に象徴されるように、順風満帆ではなかった。60年代は、メーカーが独自の海外販売網を持つことで問屋排除が進むのではと危惧されたこと。80年代は、原料品市場の停滞や重厚長大から軽薄短小の時代への対応の遅れたこと。東西冷戦の終焉後は、世界は『情報化』と『グローバリゼーション』をキーワードに大きく変化した。
バブル期
1990年(平成2年)、兼松江商株式会社から兼松株式会社に社名を変更。バブル崩壊後の日本経済は、『失われた90年代』ともいわれる変化にうまく対応できず、収益が伸びない時代となった。1991年2月、東京本社を芝浦シーバンスに移転。1998年、格付けが引き下げられ、資金繰りが悪化する[2]。1999年、取引銀行に1700億円の債務免除を要請[2]。5月、収益力の向上および財務体質の強化を柱とした『構造改革』を実施。電子・IT、食品、食糧、鉄鋼、機械・プラント、環境・素材の分野へ経営資源を集中させた。2010年度からは新中期経営計画『S-project』がスタート。単純なファイナンス取引や投機的取引は回避し、実業の裏づけがある取引に注力。「事業創造集団」[注釈 4]を目指すことを決定した。
復活
2013年、15期ぶりに復配し、『兼松モデル』と称される復活を遂げた[2]。2018年度から創業135周年にあたる2024年までの6ヵ年中期ビジョン『future 135』を策定し推進している。
沿革
旧 兼松株式会社
1889年(明治22年)8月 - 兼松房治郎、兵庫県神戸市に羊毛の輸入を目的として豪州貿易兼松房治郎商店を創業。
1911年(明治44年) - 本店ビル「日濠館」(現・海岸ビルヂング)建設。
1913年(大正2年)5月 - 兼松合資会社に改組。