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出典検索?: "具臺晟"
具 臺晟(ク・デソン)
Koo Dae-Sung基本情報
国籍 大韓民国
出身地大田広域市
生年月日 (1969-08-02) 1969年8月2日(54歳)
身長
体重183 cm
84 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1992年 KBO1次ドラフト
初出場KBO / 1993年5月1日
NPB / 2001年3月24日
MLB / 2005年4月4日
最終出場NPB / 2004年9月27日
MLB / 2005年8月20日
KBO / 2010年9月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
大田高等学校
漢陽大学校
ビングレ・イーグルス
ハンファ・イーグルス (1993 - 2000)
オリックス・ブルーウェーブ (2001 - 2004)
ニューヨーク・メッツ (2005)
ハンファ・イーグルス (2006 - 2010)
シドニー・ブルーソックス (2010 - 2015)
ジーロング・コリア (2022 - 2023)
監督・コーチ歴
シドニー・ブルーソックス (2016 - 2018)
ジーロング・コリア (2018 - 2019)
国際大会
代表チーム大韓民国
五輪2000年
WBC2006年
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ク・デソン
各種表記
ハングル:???
漢字:具臺晟
発音:クデソン
英語表記:Koo Dae-Sung
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具 臺晟(ク・デソン、朝: ???、1969年8月2日 - )は、大韓民国大田広域市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。
現役時代には、韓国プロ野球(KBO)・メジャーリーグベースボール(MLB)・日本プロ野球(NPB)・オーストラリアン・ベースボールリーグ(ABL)でのプレーを経験。 大田高等学校への在学中に、韓国高校選抜として来日。大阪府(大阪スタヂアム)や鳥取県などで開かれた試合に登板した。漢陽大学校へ進学。 1993年シーズンからピングレ・イーグルス(現在のハンファ・イーグルス)に入団。公式戦で先発投手に起用。しかし、大学時代から抱えていた右肩の故障の影響で、あまり活躍できなかった。 1994年からは、主にクローザーとして活躍。1996年には、最多勝利・最優秀救援投手・最優秀選手賞のタイトルを獲得した。 2000年シドニーオリンピックには、韓国代表の一員として参加。日本代表との対戦で日本打線を2度にわたって抑え込むなどの好投で、銅メダル獲得に貢献した。 2001年にオリックス・ブルーウェーブへ入団。シーズン当初は、150kmのストレートと高速スライダーを武器に、一軍公式戦でクローザーに起用。しかし、不安定な投球が続いたため、シーズン途中から先発へ転向した。一軍公式戦全体では、51試合に登板。7勝9敗10セーブ、防御率4.06という成績を残した(先発では9試合3勝4敗防御率3.41)。 2002年には、スローカーブなどによって緩急を付ける投球スタイルに変更、チーム打率.235と著しく低迷した打線の影響で勝ち星は5勝しか上げられなかったものの、防御率は金田政彦の2.50に次ぐパシフィック・リーグ2位の2.52。2003年には、故障の影響で、一軍公式戦への登板が19試合にとどまる。 2004年には、起用法を巡って、伊原春樹新監督やフロントと対立した。シーズン終盤には、ブルーウェーブによる大阪近鉄バファローズの吸収合併が決定。ブルーウェーブとして最後の公式戦になった9月27日の対大阪近鉄戦(ヤフーBBスタジアム)では、先発を任されると、ブルーウェーブの勝利によってチーム最後の勝利投手になった。一軍公式戦全体では、来日後の最多の3完投、6勝10敗、防御率4.32。シーズン終了後には、具自身のメジャー挑戦の意思が強く、契約に至らなかった。 2005年に、ニューヨーク・メッツとスプリット契約を締結。後にメジャーへ昇格すると、公式戦の序盤に中継ぎ要員として活躍した。しかし、シーズン中盤からマイナーに降格すると、シーズン終了後に契約を解除された。 2006年3月にハンファへ復帰する。開幕前に第1回WBCの韓国代表に選出された。同大会では1次リーグの日本戦では、2イニングを完璧に抑えた末に、勝利投手になった。2次リーグでも日本戦の9回に登板したが、西岡剛にソロ本塁打を打たれ、チーム唯一の失点となる。なお、準決勝では故障で登板を回避している。 2007年には、KBO史上2人目の個人通算200セーブを達成。2008年には、故障で開幕に出遅れ中継ぎに回る。2009年は中継ぎを中心チームおよび自己最多の71試合に登板、チームが最下位でシーズンを終えたことから、推定年俸2億ウォン(1億ウォン減)で契約を更改した。 2010年8月15日に、同年のシーズン限りでKBOから引退することを発表。8月22日の記者会見では、オーストラリアン・ベースボールリーグのシドニー・ブルーソックスで現役を続ける意向を示した。
経歴
プロ入り前
ピングレ・第一次ハンファ時代
オリックス時代
メッツ時代
第二次ハンファ時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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