具平親王
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具平親王
時代
平安時代中期
生誕応和4年6月19日964年7月30日[1]
薨去寛弘6年7月28日1009年8月21日
別名後中書王、千種殿、六条宮
官位二品中務卿
父母父:村上天皇、母:荘子女王
兄弟承子内親王、理子内親王、保子内親王規子内親王広平親王冷泉天皇致平親王盛子内親王為平親王楽子内親王輔子内親王昭平親王、緝子内親王、資子内親王、昌平親王、円融天皇選子内親王、具平親王、永平親王
為平親王の娘、大顔
隆姫女王藤原頼成、祇子女王、?子女王源師房
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具平親王(ともひら しんのう)は、平安時代中期の皇族村上天皇の第七皇子。官位二品中務卿。後中書王(のちの ちゅうしょ おう)、千種殿(ちぐさ どの)、六条宮(ろくじょうの みや)[2]の通称がある。
経歴

応和4年(964年)叔父にあたる民部大輔源保光の坊城宅で生まれる。康保2年(965年親王宣下。康保5年(967年)5月に父・村上天皇崩御すると、7月には母・荘子女王が出家した。

円融朝貞元2年(977年元服して三品に叙せられる。一条朝にて兵部卿中務卿を務め、寛弘4年(1007年)二品に至る。寛弘5年(1008年)7月に母の荘子女王が没すると、具平親王も後を追うように翌寛弘6年(1009年)7月28日に薨じた。享年46。最終官位は二品行中務卿。
人物

幼少の頃から知的好奇心に富み、心構えがしっかりとした人物だった[3]。卓越した文人として知られ、一条朝における文壇の中心人物であり、文人だった叔父の兼明親王醍醐天皇皇子)が「前中書王」と呼ばれたのに対して、具平親王は後中書王と呼ばれた。詩歌管弦を始め書道陰陽道・医術にも通じていた[4]

橘正通慶滋保胤に師事し、大江匡衡藤原為頼為時兄弟(紫式部の伯父と父)などとも親しく交流した。藤原公任とは柿本人麻呂紀貫之の歌の優劣を廻って論争し、人麻呂が優ると主張して公任を論破したことが有名な逸話として伝わり(『古事談』)、これが後に公任が『三十六人撰』を選定するきっかけとなったという。

親王作の詩歌は『拾遺和歌集』の3首をはじめ、勅撰和歌集に都合41首が採録されている[5]。他にも『本朝麗藻』『和漢朗詠集』『本朝文粋』などに漢詩作品が撰集されている。
著作

『具平親王集』(散佚)

『弘決外典鈔』

『書写山性空上人伝』

官歴

康保2年(965年) 8月13日:親王宣下[1]

貞元2年(977年) 8月11日:元服[1]

時期不詳:三品

永延元年(987年) 7月21日:見兵部卿[1]

正暦元年(990年) 8月10日:見中務卿[6]

寛弘4年(1007年) 4月25日:二品[1]

寛弘6年(1009年) 7月28日:薨去(二品行中務卿)[1]

系図

   

60
醍醐天皇 

                 
               
61 朱雀天皇 62 村上天皇 兼明親王 源高明 

                              
                               
広平親王 63 冷泉天皇 致平親王 為平親王 64 円融天皇 昭平親王 具平親王 

                               
     
    65 花山天皇 67 三条天皇     66 一条天皇     源師房
村上源氏へ〕 

                           
          
        敦明親王
(小一条院) 禎子内親王
(陽明門院) 68 後一条天皇 69 後朱雀天皇 

                             
     
                    70 後冷泉天皇 71 後三条天皇  

                            


系譜

父:
村上天皇

母:荘子女王(代明親王の娘) - 麗景殿女御

妻:為平親王の娘

長女:隆姫女王(995-1087) - 藤原頼通

次女:祇子女王 - 敦康親王

三女:?子女王(1005-1081) - 伊勢斎宮藤原教通

男子:源師房(資定王)(1008-1077) - 子孫は村上源氏


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