座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分5.7秒 東経109度16分23.1秒 / 北緯34.384917度 東経109.273083度 / 34.384917; 109.273083
始皇帝陵兵馬俑坑1号坑騎兵俑と軍馬俑彩色された兵士兵馬俑(へいばよう)は、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。同地は中国の5A級観光地(2007年認定)である[1]。 古代中国の俑は死者の墓に副葬される明器 始皇帝陵(驪山陵)の存在は『史記』や『漢書』[2] など、古代中国の歴史書に記されていた。1962年に陝西省文物管理委員会が始皇帝陵園の調査を行い、78の遺跡を確認したのが始皇帝陵の考古調査の嚆矢であるが、兵馬俑の存在は知られていなかった(地域の住人の間では、以前から水を枯らす化け物として兵馬俑の存在は薄々知られていたとの報告もある[3])。1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際に、住民のひとり楊志発によって兵馬俑の最初の破片が発見された[4]。彼へのインタビューによれば、最初、鍬で土を掘り返していたところ、何か硬いものに当たったという。きっとなにか壺でも有って、昔ここに竈でもあったのだろうと何気なく掘り返していると、人間大の人形が出てきたという。その人形は左足はかけていたが、胴体は無傷で、その人形の脇には青銅の矢が置いてあった、とのことである(TBSのテレビ番組「世界遺産」の秦の始皇帝陵の回のインタビューにて)[5]。当初、住民たちにはこの発見の価値は理解されず[6]、発見を知らされた臨潼県文化館も現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上級部門への報告を怠った[7]。2カ月後、たまたま新華社通信の記者の藺安穏が県文化館に立ち寄り、陶俑が秦代の俑であることを見抜いた[8]。藺安穏の記事が中国共産党の内部報である『状況匯編』に掲載され、指導部の目に止まった。そこで国務院副総理の李先念が国家文物局 始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8,000体の俑が確認されている。兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない[14]。また、かつては兵士の俑のそれぞれに顔料で彩色がされていたこともその後の発掘調査で判明した[15]。指揮官・騎兵・歩兵と異なる階級や役割を反映させた造形は、始皇帝麾下の軍団を写したものである。兵馬俑の軍団は東方を向いており、旧六国を威圧したものとみなされている。21世紀に入った現在でも、兵馬俑の調査・研究は継続されており、近年の調査では、来世へと旅立った始皇帝の為に造設されたこの遺跡は、身を守る軍隊だけでなく宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されている。そのため、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたと考えられている。
概要
発掘の経緯
始皇帝陵
武士俑(兵士俑、歩兵俑)一般的な兵士をかたどったものであり、平均身長は約1.8メートル。軍団の主体を構成しており、兵馬俑坑から出土した数は最も多い。戦袍を着た兵士(戦袍武士俑)と鎧を着た兵士(鎧甲武士俑)に二分される。
御手俑(御者俑)兵馬俑坑1号坑では、随所に4頭立ての陶製馬の引く木製の指揮用戦車がみられた。戦車の後方には3体の俑が並べ置かれたが、そのうち中央か左側に立つのが御者俑である。