兵衛府
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兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)、威衛(いえい)、鷹揚(おうよう)。
変遷

兵衛とは、天皇やその家族の近侍・護衛のために国造の子弟から選抜された舎人の機能を強化・拡充する形で天武天皇時代に成立したと言われている。大宝律令成立後に左右に分立した。養老律令において内部官職名の変更が行われた。藤原仲麻呂政権下の天平宝字2年(758年)に虎賁衛(こほんえい)と改称したが、6年後の仲麻呂の没落とともに旧に復された。後に地方において国造・郡司層が没落すると、新設の近衛府に主力の座を奪われて規模も縮小されることになる。

本来は古代から続く国造・郡司などの地方豪族による奉仕の一環であったが、律令制の下では彼らが兵衛や舎人として在京することで武官あるいは行政官としての社会経験を積ませる意味も含まれるようになった。多くの者は故郷に戻った後に国造・郡司の地位を継承したが、一部には才能が評価されて京に残って中央の下級官人として活躍する者もいた。このため、中央への出仕の機会としても兵衛が認識され、構成員も畿内の豪族の子弟や位子蔭子孫が増えていくことになった[1]
内部官職

左右に各1名。四等官のうちの長官「カミ」に相当。
権官はない。令制では従五位上相当の官職であったが、延暦18年(799年)4月27日に従四位下相当に改訂された。大宝律令においては「率」(読み方は同じ)。中納言参議位階としては二位・三位))との兼官が多く、また左右衛門督を加えた計4名のうちの1人が検非違使別当を兼ねるのが慣例であった。とは言え、実態としてはかなり広範な任用例が見られ、兼官としては大弁中弁、あるいは近衛中将との兼務例が見られる他、五位からの抜擢の例もあり、非参議散位である二・三位クラスの公卿に職を宛がうための官職でもあった。後に足利尊氏直義兄弟や新田義貞など建武の新政の名将達が左兵衛督に任じられたため、武士にとって名誉ある官職とみなされた。このため室町時代では主に代々の鎌倉公方斯波氏の当主が任官した。江戸時代武家官位では、御家門たる明石松平家の当主が左兵衛督に、尾張徳川家の世子が右兵衛督に任官された。また、鎌倉公方の末裔の喜連川家の当主は、室町時代からの慣行により無位無官ながら左兵衛督を名乗ることが江戸時代を通じて認められていた。唐名は武衛大将軍、威衛大将軍、鎮軍大将軍。

左右に各1名。四等官のうちの次官「スケ」に相当するが、権官あり(権佐)。令制では正六位下相当の官職であったが、延暦18年4月27日に従五位上相当に改訂された。大宝律令においては「翼」(読み方は同じ)。少納言との兼務が多い他、馬頭から近衛中将に転じる際に空席がない場合において、暫くの間この職を拝命して中将の空席を待つ事もあった。平安時代、兵衛佐や兵衛権佐は公卿への昇進コース(典型的なコースは、侍従→兵衛佐→近衛少将近衛中将参議。少将から少弁や中弁に転じて弁官で昇進して参議に至るコースもあり、兵衛佐から少弁に転じて弁官で昇進して参議に昇進する者もあった)上の官であったため、上流貴族の子弟が多く任じられた。六波羅政権を樹立する平清盛が最初に任じられた官職も左兵衛佐である。この待遇は当時の武士の子弟の官位としては破格のもの(公卿の子弟など上流貴族に準ずる待遇)であり、当時の権門貴族であった藤原宗忠はその日記・中右記において「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している。またこの官職でもっとも著名なのは右兵衛権佐に任じられた源頼朝である。平治の乱の際にこの職に任じられた頼朝は僅か十五日で解官され、20年に及ぶ流人生活を経て平家を倒し、建久元年(1190年)に権大納言に任じられるまでの30年間「前右兵衛権佐」であった。このため、頼朝に仕えた御家人達は頼朝に敬意を払って「佐殿(すけどの)」と呼んだのである。室町時代に入ると左兵衛佐の官職は斯波氏の当主が代々任じられるようになったため、同家を武衛家と称した。平安時代、兵衛佐は五位の者が任じられ、四位に叙されるとこの官を止めるのが原則であったが、長承四年(1135年)に左兵衛佐平清盛従四位下に叙された際「兵衛佐如元」とされて四位兵衛佐の例が稀に見られるようになった。


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