兵科
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兵科(へいか)とは、狭義には軍隊において軍人に割り当てられた職務区分のうち、主に直接的な戦闘を担当する区分のこと。広義には、戦闘職務以外の後方職務を含む区分全体のこと。さらに狭義の兵科においてより細分化された特技職区分(兵種と称す)を指すこともある。そのため、単に「兵科」といっても多様な用いられ方をする。

例として、大日本帝国陸軍では主に戦闘を担当する区分を「兵科」、後方職務を「各部」と区分し、さらに兵科の一部には細分化された「兵種」を内部に置いていた。しかし1940年9月の改正により、歩兵科といった兵科の区分(「兵科区分」)を憲兵を除いて廃止し、単一の「兵科」としている(「各部」および「兵種」は存続)。陸上自衛隊では戦闘を担当する職務以外を含めて、「職種」という。
概説

騎士時代には乗馬本分者とそうでない者などの区別はあったが、近代的軍隊創設のころから部隊や軍人の合理的管理のため兵科制度(この章では概念上の兵科をいう)が創設されるようになった。伝統的には、歩兵・騎兵砲兵工兵が戦闘兵科の中心である。

しかしながら、新兵器の開発により特定の兵器を専門に扱う兵科が新設されたり(古くは砲兵、新しくは航空兵科や機甲兵科など)、外征型の大規模な陸軍の創設により兵站を担当する兵科(輜重兵科など)が新設されたり、組織の肥大化と行政的管理の必要性から行政管理的兵科(古くは憲兵、新しくは会計科など)が新設されたり、技術の進展に伴い先端技術を必要とする兵科(通信兵科や化学科など)が新設される傾向がある。

また、兵科制度は、個々の軍隊の、その時代、状況に適応するように設計されるため、特に後方支援担当の兵科においては制度設計が様々であり、対応関係を論ずるのは困難である。

兵科の細分化は兵科同士の縄張り争いを生み出した。日本陸軍では砲兵科(砲兵)では迫撃砲と称す分類の火砲を、歩兵砲として歩兵科(歩兵)が導入した際には曲射歩兵砲と称されるといった名称の置き換えが発生していた。とくに細分化が酷かったのはドイツ軍で、第一次世界大戦では擲弾は歩兵科、砲弾は砲兵科、爆薬は工兵科という細分化がなされていたことにより、迫撃砲に準じた兵器に対して、歩兵科ではグラナーテンヴェルファー(擲弾投射器)、砲兵科ではメーザー(臼砲)、工兵科ではミーネンヴェルファー(爆薬投射器)という呼称が使用され、開発から生産まで全て別個に行われていた。第二次世界大戦でも砲兵科の突撃砲と、機甲兵科の駆逐戦車のように、類似した兵器が兵科ごとに設計から生産まで別々に行われる事態を招いている。このような事態は非効率的であるが、このような問題に関してはどこの国のどの時代にも程度の違いこそあれ、存在しており、現代でも根本的には解消していない。
兵科部 (大日本帝国陸軍)
兵科区分

大日本帝国陸軍では、当初は様々な兵科区分が置かれる。明治7年11月8日に改定された陸軍武官表[1] の時点では、兵科区分として次のものが置かれていた。
参謀科

要塞参謀科

憲兵科

歩兵科

騎兵科

砲兵科

工兵科

輜重兵科

1925年(大正14年)には、航空技術の進展に伴い航空兵科が新設されている。

もっとも、固定的な兵科区分は時代の趨勢に適合しないという判断から、1940年(昭和15年)9月15日に「兵科区分」(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵)を廃止した[2]。但し、憲兵科のみは存続する。これによって「兵科区分」は原則として廃止されたが、各部に対応する戦闘兵科の総称としての「兵科」の概念と、後述の「兵種」は存続している。
参謀科・要塞参謀科

当初は参謀科・要塞参謀科を置いていた日本陸軍であるが、明治12年10月10日の時点では、要塞参謀科はなくなっている[3]。また、明治19年3月9日の時点では、参謀科はなくなっている[4]。なお、参謀が独立した兵科区分(参謀科)に属する軍制はプロシア軍などに見られる。
屯田兵科

屯田兵について、明治12年10月10日の時点では、屯田兵科が設けられている[3]。さらに、明治24年3月30日に、単なる「屯田兵科」を廃止してこれを細分化し、新たに「屯田歩兵科」、「屯田騎兵科」、「屯田砲兵科」、「屯田工兵科」を置いた[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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