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兵庫県立柏原高等学校
兵庫県立柏原高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度07分55秒 東経135度04分56秒 / 北緯35.13194度 東経135.08222度 / 35.13194; 135.08222
兵庫県立柏原高等学校(ひょうごけんりつ かいばらこうとうがっこう, Hyogo Prefectural Kaibara High School)は、兵庫県丹波市にある公立の高等学校。2019年現在は文部科学省指定事業「地域との協働による高校教育改革推進事業(グローカル型)」に指定されている。略称は「柏高」(はっこう)。応援歌においても「はっこう」と歌われる。 1897年(明治30年)4月26日創立。旧制中学時代には、柏原中學校、柏原高等女學校の2つがあったが、1948年(昭和23年)に兵庫県立柏原高等学校として統合される。その後、旧氷上郡(現・丹波市)内に3つの分校があったが、現在では2つは廃校、1つは兵庫県立氷上西高等学校として独立している。当初は、普通科、商業科、家政科、定時制普通科があったが、1987年(昭和62年)からは普通科のみの進学校として現在に至る。2008年(平成20年)には理系コースを前身とする「知の探究コース」が設置される。また、近年は留学生の受け入れや、台湾への修学旅行など国際交流が活発で、文部科学省のスーパーグローバルハイスクール(SGH)のアソシエイト校にも指定されている。
概要
沿革
旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
1897年(明治30年)4月26日 - 「兵庫縣柏原尋常中學校」(修業年限:5年)が創立され、開校式を挙行。
兵庫県下4番目の創立で、初代校長には土井亀之進が就任。
1899年(明治32年)4月1日 - 中学校令の改正により、「兵庫県柏原中学校」と改称(「尋常」が除かれる)。
1901年(明治34年)4月1日 - 「兵庫県立柏原中学校」に改称(県の後に「立」が加えられる)。
1941年(昭和16年)1月 - 校舎を大改築し、本館等が完成。
1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
1944年(昭和19年)
4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限短縮(5年から4年に短縮)の施行がこの時の4年生から前倒しで適用されることとなる。
7月 - 尼崎大日電線工場や西宮鐘淵工場への学徒勤労動員が開始。
1945年(昭和20年)
3月 - 修業年限実施の前倒しにより、1940年(昭和15年)に入学した5年生と1941年(昭和16年)に入学した4年生の合同の卒業式が行われる。
4月1日 - 授業が停止される。ただし勤労動員は継続。
8月15日 - 終戦。
9月 - 授業を再開。
1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る。この時の入学生が旧制中学校最後の入学生となる。
1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
旧制中学校の生徒募集を停止(1年生不在)。
新制中学校を併設し(名称:兵庫県立柏原中学校併設中学校、以下:併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
旧制中学校3・4年修了者はそのまま旧制中学校に在籍し、4・5年生となった(4年で卒業することもできた)。
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、旧制中学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立柏原高等学校」(男子校)が発足。
旧制中学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
併設中学校は新制高等学校に継承され(名称:兵庫県立柏原高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
1902年(明治35年)5月 - 柏原町立崇廣尋常高等小学校[1]に女子補習科が設置される。近藤九市郎が初代校長に就任。
1903年(明治36年)
4月1日 - 「柏原町立柏原女学校」が設置される。
4月12日 - 開校式を挙行。
1908年(明治41年)
4月1日 - 「氷上郡立柏原高等女学校」と改称。
5月8日 - 開校式を挙行。
1909年(明治42年)4月 - 新校舎に移転。
1914年(大正3年)3月 - 「氷上郡立実科高等女学校」と改称。
1918年(大正7年)3月 - 実科を廃止し、「氷上郡立柏原高等女学校」に改称(再)。
1922年(大正11年)4月1日 - 県立移管により、「兵庫県立柏原高等女学校」に改称。
1925年(大正14年)4月1日 - 補習科を設置。
1944年(昭和19年)9月 - 尼崎甲陽製作所成松工場への学徒勤労動員が開始。
1945年(昭和20年)
4月1日 - 授業が停止される。ただし勤労動員は継続。
8月15日 - 終戦。
9月 - 授業を再開。
1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
高等女学校の生徒募集を停止(1年生不在)。
新制中学校を併設し(名称:兵庫県立柏原高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、4年生・補習科生となった(4年で卒業することもできた)。
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立氷上高等学校」(女子校)が発足。
高等女学校補習科修了生(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
併設中学校は新制高等学校に継承され(名称:兵庫県立氷上高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
新制高等学校(男女共学)
1948年(昭和23年)9月1日 - 高校三原則に基づく兵庫県内の公立高等学校の統合・再編が行われる。
上記2校の新制高等学校が統合され、「兵庫県立柏原高等学校」(男女共学)が発足。
定時制高等学校(中心校)を併置。また定時制成松分校と定時制青垣分校の2校を設置。
併設中学校も統合され、「兵庫県立柏原高等学校併設中学校」となる。
1949年(昭和24年)3月31日 - 併設中学校を廃止。
1952年(昭和27年)
1月 - 校歌を制定。
4月1日 - 吉見村に定時制山東分校を設置。
1956年(昭和31年)10月 - 創立60周年並びに普通科校舎増築落成記念式典を挙行。
1960年(昭和35年)2月 - 体育館兼講堂が完成。
1961年(昭和36年)3月 - 第33回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)に初出場。結果は初戦の作新学院戦で0-2と敗退。
1962年(昭和37年)4月1日 - 青垣分校が全日制に移行。