logo兵庫城、兵庫陣屋
(兵庫県)
兵庫城の石碑と案内看板
別名池田城、片桐陣屋、兵庫陣屋
城郭構造平城、海城
天守構造不明(天守が備えた可能性が指摘されている)
築城主池田恒興
築城年1581年(天正9年)
主な改修者不明
主な城主池田恒興、片桐且元
廃城年1769年(明和6年)
遺構なし
指定文化財なし
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分57.222秒 東経135度10分23.359秒 / 北緯34.66589500度 東経135.17315528度 / 34.66589500; 135.17315528
兵庫城(ひょうごじょう)は、兵庫県神戸市兵庫区中之島(旧・摂津国八部郡兵庫津)[1][要ページ番号]周辺にあった日本の城である。尼崎藩時代には兵庫陣屋と呼ばれ奉行が置かれ明治時代には兵庫県庁があった。 神戸港の西に兵庫港という港がある。兵庫港は江戸時代まで良港として栄えた兵庫津の跡で、また平清盛が遷都とした福原京がある。南北朝時代には戦いの中心となり、また北側には山陽道が通り、海陸の集散地でもあり交通の要衝でもあった。兵庫城が城として機能していたのは戦国時代の短い期間で、江戸時代には陣屋となった。明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や、近代以降の都市化により陣屋の遺構は失われた。 天正6年(1578年)11月、有岡城の戦いで荒木村重が突然織田信長に謀反をおこした。その有岡城も落城し荒木村重は花隈城へ逃走し、そこで花隈城の戦いが行われたが、織田信長軍の武将で池田恒興(信輝)・輝政父子により花隈城も落城した。その功により、織田信長より兵庫の地を与えられた。摂津国の大守になった池田恒興は、1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。その時の様子は、「池田信輝此津守領の時、花隈城を毀り、其材石を移してここに築く」(『摂津名所図会』)とある。しかし1583年(天正11年)池田恒興わずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されていた。1607年(慶長12年)に朝鮮使節がここに招かれており、その日記の中には、「及館主所周以城池門設三重(略)支供官乃秀頼代官片桐主膳」とある事から館の周りには堀があり、三重の門があったことが窺い知れる記載となっている。江戸時代まで朝鮮使節は合計12回実施されるが、その内11回は兵庫津に寄港している。尼崎藩は朝鮮使節の接待役を命じられ、約2年前から準備が始められ、港の整備や宿泊先の手配をしていた。 1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。1769年(明和6年)、上知令により兵庫津一帯は天領となった。大坂町奉行が支配することになり、兵庫勤番所と呼ばれた。 明治維新期には勤番所が初代の兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任した。1873年(明治6年)まで外郭となっていた土塁が残っていたが市街地発展のため取り除かれ、翌1874年(明治7年)に兵庫港が大幅に改修され、兵庫新川運河が出来て、兵庫城跡はなくなってしまった。 兵庫勤番所(天領時代)/神戸市立中央図書館蔵 兵庫新川運河 兵庫城は、湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役目を果たし、前面は港を持つ防御の拠点となった「海城」として整備したものと考えられている。「(一五八一)に花熊城の石材などの一部を用いて天守閣を備えた城を築いた」とあり、天守が備わっていた可能性を指摘している[2]。 兵庫城の入り口柳原総門は兵庫の町の北部、扇の要と言える場所にあり、柳原総門を包み込むように、福海寺が配置され枡形を構成している。
概要
沿革池田恒興像/大阪城天守閣蔵片桐且元像/大和郡山市慈光院所蔵伊藤博文/初代兵庫県知事
城郭摂州八部郡福原庄兵庫津絵図(右が北)城中枢付近の拡大図兵庫陣屋絵図(左が北)