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出典検索?: "共和演説事件"
共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)は、第1次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が1898年(明治31年)8月22日に行った演説が問題となり、内閣瓦解の発端となった事件。
背景
隈板内閣における内紛「第1次大隈内閣」および「憲政党」も参照
明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙では立憲自由党と進歩党が多数を占めて勝利した。6月10日に第3次伊藤内閣が提出した地租増徴案に両党は反対し、即日解散となった。6月22日に両党は合同して憲政党を結成した[1]。憲政党は政府に対抗する「民党」であり、衆議院を通過させなければ政府は予算を通すことができないため、伊藤博文首相ら元老は対応策を協議したが、まとまらなかった。伊藤は首相を辞任して、後任の首相に元進歩党の大隈重信と元立憲自由党の板垣退助を推薦した[2]。こうして6月30日に成立した第1次大隈内閣は、大隈と板垣に対して大命が下されたため「隈板内閣」と呼ばれる。大隈が首相、板垣が内務大臣に就任し、閣僚ポストは陸海軍を除くすべてが憲政党員という、日本最初の政党内閣となった。8月10日の第6回衆議院議員総選挙で憲政党は大勝し、衆議院を制圧する巨大な与党を持つはじめての政権となった。
しかし内閣の内情は大隈率いる旧進歩党系の派閥と板垣率いる旧自由党系の派閥が対立する不安定なものであり、また山縣有朋ら「超然主義」を支持する山縣系官僚も強い警戒心を持っていた[2]。組閣から半月ほど経った7月14日には、明治天皇が内々の談話で内閣の状態を語っている。天皇によれば大隈と板垣には党人に対する影響力がほとんどなく、逆にそれらの要求に苦しんでいるとした。さらに大隈は実情を述べずに粉飾した報告を行う有様であり、大隈と板垣に政権を任せたのは間違いだったと語っている[3]。 文部大臣に就任した尾崎行雄は旧進歩党系の出身であり、当時41歳と閣内最年少者であった[4]。尾崎は旧来の内閣が行ってきた、教育者に対する言論抑制措置の多くを撤廃し、教育会から支持を集めつつあった[4]。しかし明治天皇が「就中文部省の如きは(困難が)最も甚しからん」と述べたように、尾崎による教育改革の実現は困難であるという見方も強かった[5]。 8月22日、尾崎は帝国教育会の茶話会に招かれ、500名ほどの教育関係者の前で演説を行った[6]。演説の原稿は存在しておらず、速記録や各新聞報道でも微妙に差異があるため正確な内容は不明である[7]。基本的な内容は教育者の意見表明の権利を尊重し、また拝金主義の風潮が起こっていることを批判し、外国人の子供に対するいじめ問題が起きていることについても触れたもので、大きな拍手が7度も起こるなどその場では特に問題にならなかった[8]。 このうち、後に「共和演説」として問題とされたのは拝金主義批判の部分の演説である。尾崎はアメリカの共和制が崩壊しないのは金に左右されない思想を持っているからであるとした上で、日本はそうではなく、政界を始めとした社会に「拝金宗」が蔓延していると指摘した。ここで「ありえない」とした上で「日本が共和制となった場合には」「三井、三菱が大統領の候補者となる」という趣旨の発言を行った[9]。 8月23日、伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞が演説の内容を紹介し、「帝国は万々歳帝国たり。文相尾崎が未来に共和政体必無を期す可らずと放言せしは、不臣極れり」「万世一系金甌無欠の万邦に優る所以。
尾崎による演説
尾崎批判の始まり