トルコの政党共和人民党
Cumhuriyet Halk Partisi
共和人民党のロゴ
党首オスギュル・オゼル
共和人民党(きょうわじんみんとう、トルコ語:Cumhuriyet Halk Partisi、英語:Republican People's Party)は、トルコの政党。略称はCHP。党首は2023年に就任したオズギュル・オゼル。
1923年9月9日にムスタファ・ケマル(のちのトルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク)により人民党 (Halk F?rkas?) として設立され、1980年9月12日クーデターで全政党が解散させられたため1980年代にはいったん解党状態となったが、1992年に活動を再開した。1999年の総選挙では議席獲得要件の得票10%に満たなかったため国政から議席を失ったが、2002年、2007年の総選挙では党勢を回復、第一党公正発展党が絶対過半数を占める議会においてほぼ唯一の野党勢力となった。現在の党の位置づけは中道左派であり、イギリス労働党やドイツ社会民主党、フランス社会党などと並んで社会主義インターナショナルに加盟している。 共和人民党の綱領は、アタテュルク党首時代の1927年の党大会において、「6本の矢
綱領、党旗および党章
共和主義 (Cumhuriyetcilik) - 共和制の確立をめざす。
国民主義 (Milliyetcilik) - 民族主義とも訳される。トルコ民族による国民国家の確立をめざす。
人民主義 (Halkc?l?k) - 国民主義とも訳される。社会の諸階層・職能団体の団結をめざす。
国家資本主義 (Devletcilik) - 民族資本による国民経済の確立をめざす。
世俗主義 (Laiklik) - 宗教の政治からの分離・排除をめざす。
革命主義 (?nkilapc?l?k)
この6原則は1937年には憲法にも加えられ、1940年代まで続く共和人民党一党独裁期の政権と政策を支える基本原理となった。
自らを「アタテュルクの党」であると規定する現在の共和人民党も、6大原則をケマリズム(アタテュルク主義)の原則として尊重し、党の綱領に掲げている。現在では価値を失いつつある国家資本主義、革命主義を除いた共和主義、国民主義、人民主義、世俗主義の4原則がとくに重視されており、2002年以降の議会においては、イスラム主義政党の系譜をひく保守系政党の与党公正発展党とは、とくに世俗主義にかかわる分野で対立関係にある。
党旗および党章は「6本の矢」に基づいて制定されたもので、赤地に6本の白い矢印がむかって左下から伸びる絵柄をあしらう。それぞれの矢は「6本の矢」の各原則を表している。 共和人民党は、トルコ革命において、ケマルが主導して1919年に全国組織化し、祖国解放戦争における抵抗運動の基盤組織となった「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」の後継組織として自らを位置付けている。しかし、実際には、オスマン帝国議会
歴史
一党支配体制期
その後、共和制の施行、カリフ制の廃止を経て、1924年には「共和制」を政党名に冠し、共和人民党(Cumhuriyet Halk F?rkas?)に改称し、1935年に言語改革にあわせて「政党」を意味する部分の語をアラビア語起源のF?rkaからフランス語起源のPartiに改めて現在の党名となる。
共和人民党に改称した直後には直前に人民党を離党した反主流派グループが進歩主義者共和党を結成したが、翌1925年に閉鎖に追い込まれ、共和人民党が議会における一党支配を確立した。ケマル自身は反対派を排除しつつも、一党独裁体制の弊害を理解していたため、1930年には体制内野党として自由共和党(英語版、トルコ語版)の創立が試みられるが、野党が一党支配への不満の受け皿となって共和人民党を脅かす怖れが出たため年内に解党させられている。 1938年にムスタファ・ケマル・アタテュルクが死去した後も、第2代大統領となったイスメト・イノニュを終身党首に選出し一党支配体制を続けたが、第二次世界大戦の準戦時体制で蓄積した不満の捌け口が必要となり、1945年に多党制の導入が決定された。同年にはアドナン・メンデレス、フアト・キョプリュリュ
民主党政権期
一党支配に有利に構築された1924年憲法の体制は政権党となった民主党の優位に働き、1954年の総選挙で共和人民党はわずか31議席しか獲得できない惨敗を喫した。一方の民主党はメンデレス首相が次第に独裁的な傾向を見せる一方、経済政策を誤って党内外から批判を受けるようになり、ついに1960年にクーデター(英語版)が起こって民主党は解散させられた。 1961年、政党活動解禁からまもなくに民政移管のために行われた総選挙では、組織力にまさる共和人民党の有利で進んだが、第一党にはなったものの450議席中173議席しか獲得できなかった。このため、第一党の党首として首相に就任したイスメト・イノニュは、三次にわたって組閣した連立政権において苦しい政権運営を迫られた。この間、第二党で民主党系の右派政党公正党が勢力を伸ばしたため、1965年に共和人民党は社会保障の実現を党宣言に掲げ、中道左派路線への転進を宣言して巻き返しをはかったが、同年の総選挙で公正党に敗れて第二党に転落、再び野党となった。 この敗北にもかかわらず、共和人民党では1966年には中道左派路線の提唱者であるビュレント・エジェヴィトが書記長に就任し、左旋回の方針を継続した。しかしその結果、左旋回を社会主義への接近とみなして警戒する派と党執行部の間で路線対立が深まることになり、1967年には信頼党が分裂した。 さらに1971年に公正党のスュレイマン・デミレル内閣に対し軍部が圧力をかけて総辞職に追い込む「書簡によるクーデター」事件が起こると、アタテュルク以来の軍部との信頼関係を重視して軍部の政治介入を容認した党首イノニュと、軍部に批判的な書記長エジェヴィトが対立し、路線をめぐる党内混乱が激化した。
左旋回から解党へ