共同主権
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国際法
上における共同主権(きょうどうしゅけん、
羅
: condominium
)とは、2つまたはそれ以上の
国家
が同等の
主権
を行使することに合意した地域を指す。2人以上の人物がその地域の君主となる共同君主制(英語版)とは異なる。
現在の共同主権地域
エヒテルナハ
付近のザウアー川に架かる
人道橋
(Foussgangerbreck zu Iechternach)の右岸地点に付けられた共同主権領域を示す標識。左はルクセンブルクの
国章
で、右は上にルクセンブルクの国章、下にドイツの国章が並んでいる。
ドイツ=ルクセンブルク共同主権領域(ドイツ語版)
[1]
ルクセンブルクとドイツの国境をなす
モーゼル川
とその支流ザウアー川(ルクセンブルク語版、ドイツ語版、英語版)
[2]
と更にその支流ウール川(ルクセンブルク語版、ドイツ語版、英語版)
[3]
の左右両岸の間の水域を主な領域とする。また、川の中にある約15の
中州
が含まれるが、中州の形や面積は当然に移ろう。この共同主権領域の南の端は、
シェンゲン
付近のフランスとの
三国国境
で、モーゼル川の中州でもあるアパック堰(
仏
: Staustufe Apach)の近傍にある
[4]
。この中州の南側の大部分はフランス領内にあり、境界を挟んで北側の2000m2程度がこの共同主権領域に含まれる
[5]
[6]
。北の端は、南の端から約118kmの距離にあり、途中、モーゼル川の支流ザウアー川を経て、更にその支流のウール川を北へ遡上し、境界線が水域内からその左岸にあがり初めて川から離れる地点、すなわちヴェイアネン(ルクセンブルク語版)(
ルクセンブルク語
: Veianen、
独
: Vianden)の町の中心部から南西へ1.4kmほどの地点
[7]
までとなる。この共同主権領域を挟んだ国境は、ドイツとルクセンブルクの国境(フランス語版)の全長約135kmの9割近くになる。この共同主権領域は、1984年12月19日のドイツとルクセンブルクの国境条約
[8]
により正式に成立した
[9]
。
フェザント島
-
ビダソア川
の
中州
にある島。フランスと スペインの共同主権下にある。
マスフット(英語版) -
オマーン
と
アラブ首長国連邦
の首長国である
アジュマーン
の共同主権地域[
要出典
]。
フォンセカ湾
の各国の領海に属さない
水域
-
エルサルバドル
、
ホンジュラス
、
ニカラグア
の共同管理[
要出典
]。
島嶼をのぞく
ボーデン湖
の大部分は、ドイツ、オーストリア、スイスの国境地域にあり、共同管理地域とされている。明確な国境線は引かれていない。
かつてセッテ・ケーダス滝(ポルトガル語版)が存在した
パラナ川
から
イグアス川
河口までの水域は
ブラジル
と
パラグアイ
の共同管理水域となっている。
イラン
は1940年のイラン=ソビエト通商海事条約に基づき、
カスピ海
の資源を
ロシア
、
アゼルバイジャン
、イラン、
トルクメニスタン
、
カザフスタン
の沿岸地域(英語版)国による、共同管理化するよう主張している
[10]
。
ブルチコ行政区
-
ボスニア・ヘルツェゴビナ
の構成共和国である
スルプスカ共和国
と
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
の共同管理地域。
過去の共同主権地域
樺太
(サハリン) -
江戸幕府
と
ロシア帝国
は1855年に
日露和親条約
を結び、樺太を日露雑居地とした。1867年には
日露間樺太島仮規則
により往来の自由が再確認されるものの、その後日本側の政権を受け継いだ
明治政府
は
樺太・千島交換条約
を締結。1875年樺太全島はロシア帝国の統治下となった。
キプロス
-
ビザンツ帝国
皇帝
ユスティニアノス2世
と
ウマイヤ朝
カリフ
アブドゥルマリク
は688年に協定を結び、ビザンツ帝国とウマイヤ朝によるキプロス島の共同管理化を行った。965年、皇帝
ニケフォロス2世フォカス
の侵攻によってビザンツ単独統治に復帰した。
現在の
スーダン
と
南スーダン
の領域に当たる
英埃領スーダン
は、1899年から1956年まで
エジプト王国
(
エジプト共和国
)とイギリスの共同統治下にあった。ただしこの期間の大半、エジプトはイギリスの
保護国
であった。
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