六道珍皇寺
所在地京都府京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分54.42秒 東経135度46分30.79秒 / 北緯34.9984500度 東経135.7752194度 / 34.9984500; 135.7752194 (六道珍皇寺)
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区小松町にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7日 - 10日の「六道詣り」、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称「六道さん」。この付近が「六道の辻」であるとされる。 この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現・松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている[1]。 創建は延暦年間(782年 - 805年)とされ、開山は奈良の大安寺の住持で空海の師にあたる慶俊とされる。異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(『伊呂波字類抄』『今昔物語集』)[2]などとする説の他、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう[3]。さらに東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保4年(1002年))には、珍皇寺は承和3年(836年)に山代淡海が創建したとある[4]。 藤原道長の日記『御堂関白記』長保6年3月12日(1004年4月4日)条にある「珎光寺」は珍皇寺を指すとみなされる。近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり、寺号は本来「ちんのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていたと考えられている[4]。珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おたぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は、珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう[5]。東山区松原通大和大路東入る弓矢町(珍皇寺の西方)には念仏寺という寺があったが、大正時代に右京区嵯峨鳥居本に移転した(愛宕念仏寺の項を参照)。 鎌倉時代までは真言宗・東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが荒廃し、貞治3年(1364年)に建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興、この際に臨済宗に改められた[2]。南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退し[6]、中世後期の寺史はあきらかではない。 明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、1910年(明治43年)に独立した。
歴史
境内
本堂 - 薬師三尊像が祀られている[7]。
庫裏
北門
庭園
五重石塔
冥土通いの井戸 - 本堂背後の庭にある小野篁が冥界への往路に利用したと伝えられる井戸。寺宝展等の特別公開時に公開される。この井戸は有名であるため、多くの文学作品[8]に登場している。詳細は「小野篁#逸話と伝説」を参照。
竹林大明神社 - 篁の念持仏を祀っている。
小野愛宕権現社
黄泉がえりの井戸 - 2011年(平成23年)に隣接民有地(旧境内地)から発見された、篁が冥土よりの帰路に使ったと伝わる井戸[9]。