六角高頼
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 凡例六角 高頼
時代室町時代後期 - 戦国時代
生誕不明[1]
死没永正17年10月29日1520年12月9日[2]
改名亀寿丸(幼名)、行高(初名)、高頼
別名右兵衛入道、四郎(通称)
神号甲賀大明神
戒名竜光院殿嘉山宗椿
官位大膳大夫
幕府室町幕府 近江守護
氏族六角氏
父母六角久頼六角政頼とも)
足利成氏養女
氏綱定頼、大原高保、和田高盛、梅戸高実、真玄、武衛娘今出川季孝室、京極材宗
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六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将守護大名近江国守護、南近江の戦国大名六角氏12代当主。佐々木城(観音寺城)の石碑
生涯
応仁の乱

六角久頼[3]の子として誕生。初名は行高[4]

康正2年(1456年)10月2日、父の憤死(自害とも)によって家督を継承する(同年末に幕命が亀寿丸充てに出されている)が、長禄2年(1458年)6月になって従兄・六角政堯に六角氏相続が認められ、その地位を追われる。幼少の当主に不安を抱いた伊庭満隆ら家臣団の策動とする説と足利義政の意向とする説がある。だが、長禄4年(1460年)7月になって政堯が満隆の子を殺害した事件を機に幕府が政堯を追放して亀寿丸が当主に復帰した[5]

応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に属し、東軍の京極持清らと京都で戦っていたが、持清の嫡男・勝秀及び家臣の多賀高忠と従兄・六角政堯が高頼の本拠地観音寺城を攻めると近江に戻り政堯や京極氏と交戦した[6]

やがて政堯を討ち取り、京極氏も持清・勝秀父子の相次ぐ急死でお家騒動を起こして弱体化(京極騒乱)、行高(高頼)は南近江の確保に努め、文明4年(1472年)、文明7年(1475年)の京極政経・多賀高忠との合戦で京極高清多賀清直宗直父子や土岐成頼斎藤妙椿斯波義廉らの援軍で勝利、応仁の乱終結後の文明10年(1478年)に幕府から近江守護に補任された。
鈎の陣と将軍庇護佐々木古城跡繖山観音山画図

応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して公家・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、公家領寺社領奉公衆の領地を押領して配下の国人衆に分け与えたため、9代将軍・足利義尚らの反発を受け長享元年(1487年)に義尚の親征を受けて甲賀山中に逃亡し、そこで高頼は頑強に抵抗した。「甲賀流」も参照

延徳元年(1489年)に義尚が.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}鈎(まがり)の陣にて没したため親征は中止、10代将軍・足利義材(のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰したが、国人衆が押領した所領を返還しなかったため延徳3年(1491年)に義材による再度の追討(長享・延徳の乱[7])を受ける羽目になってしまった。そして、再び領地を捨てて甲賀山中に逃亡した。詳細は「長享・延徳の乱」を参照

義材は六角政堯が高島氏(越中氏)から迎えていた養子(虎千代・八郎)を新しい守護に擁立する方針であった[8]。だが、明応2年(1493年)の明応の政変で義材が廃立、11代将軍として足利義高(後の義澄)が将軍に立てられる。この頃行高は2度目の追討を受け、守護になった山内就綱と戦っていたが、斎藤妙純らの支援を受けてこれを退ける。

明応4年(1495年)、将軍・義高によって近江守護に復帰、同時に義高の偏諱を受け高頼と改名した。直後に起こった船田合戦では石丸利光に与した為、勝者の斎藤妙純による近江遠征を招くが、延暦寺北畠政郷らの支援を受けて結果的に危機を回避できた[9]

永正4年(1507年)6月に管領・細川政元が暗殺される(永正の錯乱)が、その直後に義高(義澄)は近江国内における六角氏による所領押領を理由に上洛中の高頼と対立する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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