六波羅探題
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六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。

北方は赤橋家常盤家普恩寺家が務め、南方は大仏家金沢家佐介家と鎌倉に居所を構える北条氏一門で独占された。
概要
機能二条帝が内裏から六波羅へ脱出する場面。『平治物語絵巻』から。

承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあったが、再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることとなった[注釈 1]。また、幕府側は朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。

そこで、朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸の跡地を拠点にし、北条泰時北条時房の2人が六波羅の北と南に駐留して、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行った。これが六波羅探題の始まりである。ここにおいて重要なのは設置当初、幕府も六波羅探題自身も京都の治安維持は検非違使の役目であって、自らの権限の外であると考えていたことである[1]

ところが、承久の乱の戦後処理の一環として朝廷の軍事力を支える存在であった京都周辺の軍事貴族を解体した結果、彼らを主たる供給源としていた検非違使や北面武士の軍事力が大幅に低下して、京都の治安が急速に悪化した。これに対して、天福元年(1233年)8月15日に出された鎌倉幕府の追加法63条では関白九条教実と探題北条重時の間で行われた協議を反映して、洛中の強盗・殺害人については六波羅探題も検非違使庁と共に沙汰を行うこととする一方、文暦2年(1235年)7月23日に出された追加法85条では、武士が関与しない洛中の刃傷・殺害については検非違使の沙汰であるとし、京都の警固について基本的には朝廷および検非違使の責任であるという原則を示した。裏返せば武士が関与する洛中の刃傷・殺害については、六波羅探題の沙汰であると解することもできる[1]

しかし、朝廷の軍事力解体とその一翼を担う検非違使の強化によって京都の治安維持に当たらせるという幕府の2方針は矛盾するもので、現実的ではなかった。さらに嘉禎4年(1238年)2月26日、上洛した征夷大将軍九条頼経が検非違使別当に任ぜられ(3月7日辞任)、6月にはそれを受ける形で篝屋が設置され、六波羅探題が管理を任されると、同機関が京都警固の責任を負うことは不可避となった[1]

探題は執権連署に次ぐ重職とみなされ、伝統的に北条氏から北方・南方の各1名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれることが多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。また、その下には引付頭人、評定衆引付衆、奉行人などの鎌倉の組織に準じた下部組織も置かれた。なお、六波羅探題の北方と南方では前者が上席のポストで(執権探題)、得宗家や極楽寺流など、北条氏でも家格の高い者が北方を務めた。南方から北方への転任例もある(逆は皆無)ほか、南方においては欠員となっている時期もあった。ただし鎌倉時代末期には北条宗宣北条貞顕のように、南方で執権探題となった者もいる。また、得宗家に反抗的だった名越流は京都で反乱を起こすことを警戒されたためか、1人も探題を出していない[2]

六波羅探題は朝廷ではなく幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などの紛争処理、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。文永の役翌年の建治元年(1275年)には、六波羅探題の機能はさらに強化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。朝廷も六波羅探題に対して京都周辺の治安維持のみならず、寺社間の紛争解決、悪党鎮圧や所領訴訟に関する判決執行のための検断権行使を期待するようになり、幕府が朝廷との協力の下に諸問題を解決する方針を取っていた以上、六波羅探題もこの流れを拒否することはできなかった[1]

一方で権限に伴う実際の強制力は十分とは言えない面もあった。時には有力寺社への処分を行った担当官吏が、当時力をつけていた僧兵の圧力により、流刑などの処分を受ける事態も起きている。例として寛喜元年(1229年)、不法を働いていた延暦寺傘下の日吉社神人が、探題北方北条時氏の配下三善為清の制止命令を無視し、為清の部下に斬られた件がある[注釈 2]。これについて延暦寺が幕府に抗議し、六波羅探題は為清主従に過失がなかった証拠を提示したが、結局幕府は延暦寺との対立を避け、為清を流刑に処した。

また、幕府から直接派遣された特使(東使)が朝廷との直接交渉や、探題への指揮権限を与えられた事例もあり、その権限は常に幕府中枢によって掣肘を加えられていたと言って良い。評定衆をはじめとした探題府職員の人事権や、職員の官位官職への推挙権は幕府中枢に握られており、訴訟においても六波羅探題は審理のみを行い、判決はあくまでも幕府中枢で下された。そのため、その内部事情を良く知る者の中には、六波羅への赴任を嫌う者もいたと言われる。
変容

1290年代に入ると、朝廷およびその最高意思決定者である治天の君は、本所一円地において本所が対立する荘官在地領主悪党として朝廷に提訴する悪党鎮圧や、朝廷において審理された所領訴訟である雑訴沙汰において、警察力・軍事力が弱体化し、判決を執行する能力を欠くようになった。そこで朝廷はこれらの判決の執行に際し、幕府に検断権の行使を要請する勅命を出すようになった。この違勅綸旨(または違勅院宣)を実際に受理・執行したのが、朝廷のお膝元にあった六波羅探題だった。六波羅探題は御家人2名を両使に任じ、場合によっては現地で警察力・軍事力を行使し、判決の執行を行った。被告側が抵抗すれば、悪党として鎮圧・討伐の対象となった。

幕府に属する御家人が討伐対象となった場合、幕府側で出来たことは執行を先延ばしにし、勅命に従う形で和与を結ぶよう説得することくらいだった。それでも御家人は幕府の保護を受けられる身分だったため、問答無用の執行を受けず、猶予が与えられる恩恵はあった。ところが当時は両統迭立期で、天皇と治天を出す皇統が変わると、同一の事件に対して別の皇統の時期に出された判決が覆されることもあった。このため現地当事者の不満と抵抗は、判決を執行した六波羅探題、およびその後ろにある鎌倉幕府に向けられ、悪党活動の活発化・長期化、ひいては後の討幕運動への参加にまで結びついていった[4][5]
滅亡「元弘の乱」も参照

元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の皇子・護良親王が挙兵。これに呼応した楠木正成の軍が芥川付近まで侵出したが、元弘2年/正慶元年(1332年)12月、六波羅探題は宇都宮公綱赤松則村を派遣し、忍頂寺付近にまで退けた[6]。元弘3年/正慶2年(1333年)になると楠木軍と六波羅軍は摂津で対峙[注釈 3]。摂津国渡辺付近の戦いで楠木軍が勝利を収める。敗戦を知った六波羅は、宇都宮公綱の数百の軍勢を急派[6]。楠木軍側の損害も大きく南河内まで退却し、宇都宮勢も野伏の出没に苦しめられて退却した[6]

同年1月、楠木軍と六波羅軍の戦いの最中、赤松則村が幕府に反旗を翻し、播磨国で挙兵した[6]。六波羅は赤松軍を討つため、佐々木時信らの軍を派遣したが、摩耶城で大敗を喫し京都に敗走[6]。さらに瀬川合戦でも赤松軍が勝利を収め、東上した[6]。5月には丹波に向け進軍していた幕府方の足利高氏が、後醍醐天皇方につく決意を固め、京都に戻り六波羅を攻撃した[6]。5月7日、南北の両探題は六波羅を脱出し、六波羅探題は滅亡した[6]

六波羅探題の跡地には京都市立開睛小中学校が建つのみで、近隣の六波羅蜜寺が辛うじて往時の面影をその名に残している。


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