六条天皇
[Wikipedia|▼Menu]

六条天皇
『歴代尊影』
第79代天皇
在位期間
1165年8月3日 - 1168年4月9日
永万元年6月25日 - 仁安3年2月19日
即位礼1165年9月4日(永万元年7月27日
大嘗祭1166年12月9日(仁安元年11月15日
元号永万
仁安
時代平安時代
先代二条天皇
次代高倉天皇

誕生1164年12月28日長寛2年11月14日
崩御1176年8月23日安元2年7月17日
東山第
大喪儀1176年8月28日(安元2年7月22日
陵所清閑寺陵
追号六条院
(六条天皇)
諱順仁
父親二条天皇
母親伊岐致遠女
中宮藤原育子左大臣徳大寺実能、もしくは法性寺関白藤原忠通の女)を母后とする
テンプレートを表示

六条天皇(ろくじょうてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:六條天皇、1164年12月28日長寛2年11月14日〉- 1176年8月23日安元2年7月17日[1])は、日本の第79代天皇(在位: 1165年8月3日永万元年6月25日〉- 1168年4月9日仁安3年2月19日〉)。は順仁(のぶひと)。
来歴

数え2歳(満7か月と11日)で親王宣下立太子し、その日のうちに践祚した。これが歴代最年少での皇位への即位である。その1か月後の7月27日に即位式が行われるが、途中で泣き出して中断したために、参議中山忠親が「赤ん坊には儀式よりも乳の方が大切だ」と機転を利かせ、慌てて乳母蔵人頭藤原邦綱女・成子が授乳してやっと落ち着かせたという。政務は外伯父の摂政近衛基実と邦綱が表向きを取り仕切った。

在位2年8か月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位して歴代最年少の上皇となった。その後は後白河院の庇護下に置かれたが[注釈 1]、これは六条院が反対派に擁されることを防ぎ自己の王権を安定させるための後白河院の措置だったとみられる[2]。その後元服を行うこともなく、数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、死因は赤痢と言われる[3]。后妃も子もなかった。

父の二条天皇は在世中に親政を行おうとして後白河院と対立した上、異母弟・憲仁親王の擁立を画策したとして、憲仁親王の叔父・平時忠流罪平教盛藤原成親坊門信隆解官して後白河院の院政を停止させた。しかし、二条天皇を次代の治天と定めた鳥羽法皇・美福門院を喪った後、天皇の立場は極めて不安定な状況下に置かれた中で病に倒れ、母方の極めて弱い六条天皇を後継者と定めて院政を行うことも出来ないまま崩御してしまった(松薗斉は母方に力のない皇子への譲位は本意では無かったのではないかと推測する)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef