1848年に発生したフランス労働者による暴動については「六月蜂起」をご覧ください。
時1832年6月5-6日
場所パリ
結果オルレアニストが勝利し、反乱勢力は壊滅
衝突した勢力
七月王政政府 レプブリカン[注釈 1]
指揮官
ジョルジュ・ムートン
六月暴動(ろくがつぼうどう)または1832年のパリ蜂起(フランス語: Insurrection republicaine a Paris en juin 1832)は、1832年6月5日から6日にかけて発生した、パリ市民による王政打倒の暴動である。
1830年の七月革命により誕生したルイ・フィリップ1世の七月王政を打倒すべく、王政の強力な支柱であった首相カジミール・ピエール・ペリエ(英語版、フランス語版)が1832年5月16日に死去した隙を突いた形で、レプブリカン[注釈 1]が起こした反乱であり、この鎮圧をもって七月革命以来の実力的闘争は沈静化する。
ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』において、後半のクライマックスとなる場面の暴動である[2]。
背景(フランス語版)に推挙された、ブルジョワジーに人気があったオルレアン公ルイ・フィリップ1世がフランス国王に即位することとなった。しかしながら新国王は革命への期待を裏切り、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーが提唱した復古主義・オルレアニスムによる新憲法を制定し、議会制と民主主義を成立させる一方で、裕福なレジティミスト階級に政治的優位性を与えた。
ラファイエット学校運動(フランス語版)で七月革命に関与したカルボナリ党員ルイ・オーギュスト・ブランキは、弁護士の娘と結婚して新政権への抗議と収監を繰り返した。ルイ・フィリップ1世を擁立した銀行家ジャック・ラフィットも、1831年3月には財務大臣を辞任。1832年までには、「七月革命でバリケードの中で血を流した結果が、日和見主義者らによるルイ・フィリップの戴冠であったということが、特にレプブリカン(種々の共和派)には、沸騰するほどの不満に感じられた[3]。」
新憲法に不満を抱いたブルジョワジーのレプブリカンは、39名の議員がラフィットの家に集まり、調査報告書の発表を検討した。これは1832年5月22日に発表され、新憲法と王政の欠陥を非難し、七月革命に対する反革命が進行中であることを指摘し、七月革命の勢力を大変に刺激することとなった[4]。
一方、 ナポレオン帝国の喪失を嘆くボナパルティストらにも不満が残っており、ブルボン朝の残影を懐かしむレジティミストたちは、密かに正統な後継者としてのシャンボール伯アンリ(シャルル10世の孫)の即位を画策していた。レプブリカンの中に入り込んだオルレアン主義者も、利得の機会を狙っていた。
中間的ブルジョワジーから支持を得て誕生した七月王政政権は、左右両派からの攻撃を同時に受けるようになっていた[5]。
原因とそれを助長するものラマルク将軍の名で知られるジャン・マクシミリアン・ラマルクは、1815年の百日天下の際にはヴァンデ軍を率いて王党派を打倒し、後には共和主義運動を支援するなどして、レプブリカンの尊敬を集めた。六月暴動の慰霊塔。民間人、州兵、衛兵など犠牲者62名の名が刻まれている。
暴動の原因には、1827年から1832年にかけて急速に深刻なものとなった経済問題があった。この時期には不作が続き、食糧事情は悪化、物価が上昇するなど、全ての階級において不満が高まっていたのである[6]。
さらに1832年春、ヨーロッパ全土を襲っていたコレラ禍がパリにも発生し、18,402人の死者を出すという惨事になった。特に貧困層は疫病で荒廃し、政府が井戸に毒を投じたとの噂まで広まった[6]。この疫病のため、首相のカジミール・ピエール・ペリエ(フランス語版)(5月16日死去)とナポレオン傘下の将軍で自由主義派の政治家であるジャン・マクシミリアン・ラマルク(6月1日死去)の2人の著名人が亡くなった。ペリエが壮大な国葬で送られた一方、貧困層に向け同情を示し国民的な人気のあったラマルク将軍の葬儀は、反対派への強い警戒感が示されたものであった[6]。
両者の死亡以前でも、大きな暴動が2回起きている。ひとつは1831年12月にフランス第2の都市リヨンにおいて、経済困窮を理由に発生したカヌート(絹織物工)争議であり、鎮圧には地元の治安部隊では足らず、軍隊が投入された[7]。もうひとつは翌年2月に発生した、レジティミスト(復古主義者)一派が現王室を拉致しようとした「ルー・ド・プルーヴェールの陰謀」といわれるものである[5]。マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが息子シャンボール伯の即位を企み、扇動したものであったが、まもなく逮捕され陰謀は失敗に終わった。以降、レジティミストの活動は武力ではなく、出版物などの言論による闘争へと変貌することとなった[8]。 レプブリカンを主導していたのは、活動に専心した秘密結社の一団であった[5]。これらの結社は、1830年7月にシャルル10世の政府に対し暴動を扇動したのと同じものである[5]。中でも、人権協会
暴動の発生
レプブリカンたちは、6月5日にラマルク将軍の民衆葬を行い、葬列はバスティーユ広場に向かう示威運動となっていた。葬列には、共和主義者として亡命しているポーランド人、イタリア人及びドイツ人らの運動家も参加していた。彼らは棺の周りに集まり、ラマルクがポーランドとイタリアの自由のために強力に支持し支援したことについての演説を行った。群衆の中から、「自由、さもなければ死を(La liberte ou la mort)」と書かれた赤旗を振る者が現れ、群集は叛徒化し、警備していた政府軍はそれに向けて発砲を始めた[3]。弔辞のため参列していたラファイエットは落ち着くよう求めたが、混乱は止めようがなく広がっていった[9]。
一晩で、シャトレ広場(フランス語版)、アーセナル街区(フランス語版)からフォブール=サンタントワーヌ通り(フランス語版)に至る、パリの東部から中央部にかけて暴動は拡大し、叛徒は約3000人となった。夜にはテュイルリー宮殿で、叛徒が食事で大騒ぎをするのが聞こえたほどであった[10]。しかし、叛徒の拡大はそこで止まった、夜のうちに、パリ国民衛兵に属する20000の非常勤兵は、首都周辺の平定を担当するローバウ伯が率いる40000の正規兵により強化された。
武装勢力は、歴史的地域であるサン=マルタン街に彼らの牙城を築いた。バリケードがサン=マルタン通りとサン=ドニ通りのまわりの狭い路地に積み上げられた。6月6日の朝、叛徒の残党は、サン=マルタン通りとサン=メリ通りの交差点に包囲されていた。ルイ・フィリップは、この場所で首都を支配していることを示威することを決めた[11]。サン=クルーからパリに戻ると、テュイルリー宮殿で閣僚と将軍に謁見し、暴動の現場に乗り込む前、国民衛兵と兵士の喝采の中で包囲することを宣言した。