「天安門事件」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「天安門事件 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
六四天安門事件
天安門広場、1988年5月
別名(第二次)天安門事件
六四事件
八九民運
八九学運
Tiananmen Square protests of 1989
Tiananmen Massacre
起因改革派の胡耀邦元党総書記の死
関係者大学生、労働者、市民
中国共産党、中国人民解放軍
指導者ケ小平(党軍事委員会主席)
陳雲(党顧問委員会主任)
楊尚昆(国家主席)
李鵬(国務院総理)
劉華清(党軍事委員会副秘書長)
遅浩田(解放軍総参謀長)
李錫銘(北京市党委員会書記)
場所 中国 北京市長安街・天安門広場
日付1989年4月15日 - 1989年6月4日
結果中国の一般民衆及び解放軍兵士が死傷した
趙紫陽は総書記ほか全役職を解任され
江沢民が総書記・最高指導者に抜擢
中国は西側諸国から経済制裁を受けた
六四天安門事件
各種表記
繁体字:六四天安門事件
簡体字:六四天安?事件
?音:liusi ti?n?nmen shijian
発音:リゥスー ティエンアンメン シィージェン
日本語読み:ろくしてんあんもんじけん
英文:June 4 Tiananmen Incident
テンプレートを表示
六四天安門事件
戦争:中国の民主化運動
年月日:1989年4月14日-6月4日
場所:天安門広場
結果:中国の一般民衆が多数虐殺された
趙紫陽は総書記ほか全役職を解任され、江沢民が総書記・最高指導者に抜擢
中国は西側諸国から経済制裁を受けた
交戦勢力
中華人民共和国の民主化デモ隊 中華人民共和国
人民解放軍
指導者・指揮官
王丹
ウーアルカイシ
劉剛
柴玲
周鋒鎖
六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、1989年6月4日(日曜日)に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が実力行使し、多数の死傷者を出した事件である。通常、単に「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指すが[1]、四五天安門事件と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。 中国の周辺国では、2年前の同時期に台湾の中華民国ではのち民主化前の一歩前進の戒厳令解除や、韓国の光州事件から始まった民主化闘争の末の民主化宣言が立て続けに起こり、東アジアの広範囲で民主化の波が押し寄せていた。 民主化とその成功が勢いづいた波が遅れて到達した中国国内でも若者の民主化運動の高まりが広がり、民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦元党総書記の死がきっかけとなった[2]。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった[3]。 抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったが、中には中国共産党の党員、トロツキスト、左派の毛沢東主義者、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[4] に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。また、デモへの支援は外国の西側諸国からも行われ、米中央情報局(CIA)は、学生活動家たちの間に情報提供者のネットワークを構築し、反政府運動の形成に積極的な協力を見せ、タイプライターやファックスなどさまざまな機材を提供したとされる[5]。のちに、CIAは英MI6とともに何人かの反体制派指導者の密出国に関与することになる[6]。 デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。
解説