六十家小説
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六十家小説(ろくじっけしょうせつ)とは、『清平山堂話本(せいへいさんどうわほん)』、『雨窓欹枕集(うそうきちんしゅう)』などの嘉靖年間(1522-1566年)に編纂された短編小説集が、戴望舒(たいぼうじょ、中国語版、1905-1950年)の考証によって、元来『六十家小説』の名のもとに刊行されたものの一部であったことが判明した[1]ものであり、中国における語りものの内容を伝える現存最古の文字資料と考えられている[2]が、完本は残存せず、目録等全貌を把握するための研究も途上である。
清平山堂について.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。清平山堂話本
『清平山堂話本』

長澤規矩也内閣文庫で発見した清平山堂残存3本15編[3]を、1928年に中国の学者馬廉(中国語版)[4]が、11編の作品[5]の版心部分に刻されていた「清平山堂」の文字を借り、これに「話本」という言葉を加えて、仮に『清平山堂話本』と題し、1929年北京で影印刊行したが[6][7]。なお、これら発見された「残本」が「話本」と言えるかどうかという疑義が増田渉[8]勝山稔から出されている[9]
『雨窓欹枕集』

その後1933年になって、馬廉が郷里の寧波で残書の中に混入していた12編[10]の「残本」を購入したが、後にそれは天一閣に所蔵されていたものであることが判明した。12編のうち8編の版心に「清平山堂」の文字があったので、これらも内閣文庫で発見された15編と同じ書肆から刊行されたものと判断された。これらは小口に『雨窗集上』、『欹枕集下』と墨書されていたため、1934年『雨窗欹枕集』という書名で馬廉の『影印天一閣旧蔵雨窗欹枕集序』を附載し、平妖堂から影印本を刊行した。馬廉はこの序文にこれらの関連を指摘していたが、全体を含む総集的名はないものと考えていた[11]
『翡翠軒』と『梅杏爭春』

阿英(あえい、銭杏邨、せんきょうそん)が上海の伝経堂で清平山堂刊と思しき残本2編『翡翠軒(ひすいけん)』と『梅杏爭春(ばいきょうそうしゅん)』を1936年に発見した[12]。しかし前者は残葉三十数片、後者は残存五葉しかなく、書籍の体を成していない。現在は北京図書館(1998年、中国国家図書館に改称)に収蔵されている[13]。なお中里見敬は、阿英 『記嘉靖本輩翠軒及梅杏撃春』に『梅杏爭春』のテキストが載録されている、と報告している[14]
『六十家小説』

戴望舒は、顧修[15]編纂の『彙刻書目初編』(清嘉慶4年、1799年)中に、『雨窗集十巻』、『長燈集十巻』、『隨航集十巻』、『欹枕集十巻』、『解闖W十巻』、『酔夢集十巻』の名が挙げられているのを発見した。それにより馬廉発見の天一閣本がこれらの一部であり、それぞれ上下分冊で各5編、洪?の刊行した話本等が合計60編であったことが判明した。しかし所属の分かっている天一閣旧蔵12編を除き、内閣文庫発見の3冊15編や阿英発見の2編が、どのようにこれら6集12冊に配当されるのか、60編の確定と完本の復元が今後の研究課題となっている。

中国では、馬廉の作品の具体名特定の試み、譚正璧[16]や孫楷第[17]の研究を経て胡士瑩[18]の『話本小説概論』[19]へと連なる。

日本においては中里見敬の研究(中里見敬 1993)が知られており、その結論では清平山堂刊本29編の他に17編を特定できるとしている。これを契機として金文京や大塚秀高[20]によって研究が進められている[21]
『熊龍峯四種小説』

長澤規矩也が、『清平山堂話本』などと同じく内閣文庫に一種の話本の系統の書籍4冊の所蔵を「萬暦版俗本四種」として報告している。『馮伯玉風月相思小説』、『孔淑芳雙魚扇墜傳』、『蘇長公章臺柳傳』、『張生彩鸞燈傳』であり、長澤は万暦(1573-1619年)頃の俗書と推定している[22]

『張生彩鸞燈傳』の首に「熊龍峯(ゆうりゅうほう)刊行」とあるため、1958年の王鍾麟[23]校註本[24]を初めとして『熊龍峯四種小説(ゆうりゅうほうししゅしょうせつ)』という呼称が用いられている。

熊龍峯とは黄冬柏[25]によれば、明完本『楊家将演義』の編著者として知られる熊大木(1506?-1578年)の別号で、忠正堂から刊行するときに称したと推定している[26]

中里見敬は、晁?[27]『宝文堂書目』に著録された『風月相思』と『熊龍峯四種小説』収録の『馮伯玉風月相思小説』とを対比して僅かな文字異同しかないことから、熊龍峯刊行の他の3編も『六十家小説』に基づいて刊刻されたと推定し、『六十家小説』の佚本として復元できると述べている[28]


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