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この項目では、称号や爵位について説明しています。「public」の訳語については「公共」を、その他の用法については「公 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
公(こう)は、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。
この項目では中国に限らず、「公」に相当する日本やヨーロッパにおける称号、爵位、尊称などについても述べる。 漢字の「公」は円形の容器(甕)を象る象形文字で、この文字を「おおやけ」を指す単語に当てるのは仮借による。『説文解字』では「八」と「厶」とを組み合わせた会意文字と説明されているが、甲骨文字や金文の形を見ればわかるようにこれは誤った分析である。[1] 個々人の「私」に対する全体としての「公」は、のちに転じて国家を指すようになった。また、国家の官職に就いている士を公士といったり、国家に属する民を公民といったりするようになった。さらに、封建制のもとでは国家の支配者である君(君主)が国家を体現する存在であることから、君のことを公という用法が生じた。 「王」の称号をもつ君は天子のみであったから、春秋時代までは周以外の国の君は公とのみ称した。 天子である王(のちには皇帝)も君であるから公であり、天子の家である朝廷を公上と尊称したり公家と呼んだりすることができる。 儒家によって理想化された周の封建制理念においては、諸国の君は周の王である天子によって爵(爵位)を授けられた諸侯であると見なされるようになった。そこにおいて諸侯の爵位は公・侯・伯・子・男の五等爵に分かれていたとされる。公の爵位は魯公など周王室の親族出身の諸侯にのみ許される諸侯の最高位であると考えられるようになった。 天子の国である周を除く諸国では、君主の称号として王に代わって公がもっぱら用いられた。戦国時代に有力な諸侯が王の称号を名乗ったため天子による「王の称号独占」は消滅した。さらに漢では有力な皇族や功臣が諸侯として王に封ぜられたので、公の位は王に継ぐ諸侯の称号として皇族や功臣に与えられるようになった。 その後、爵位に関する制度の変遷と共に様々に内実を変化させつつ、20世紀初頭の清の滅亡に至るまで、公の称号は皇族や功臣に与えられる爵位として用いられていた。
概要
漢字の成り立ち
「国家」
古代中国の理念
中国における公の称号詳細は「爵位#中国における爵位」および「公爵#中国の公爵」を参照
日本において詳細は「爵位#日本における爵位」および「公爵#日本の公爵」を参照.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに称謂私言(那珂通世、1894年)