公安委員会_(フランス革命)
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共和暦2年の公安委員会

公安委員会(こうあんいいんかい、: Comite de salut public)は、革命期フランス1793年4月7日から1795年11月4日まで存在した統治機構で、途中1794年7月27日までは事実上の革命政府[注釈 1]。会議場はテュイルリー宮殿に隣接するフロール館(パヴィヨン・ド・フロール)であった[注釈 2]

自由の確立のためには暴力が必要であるとして「自由の専政[注釈 3]」のために創られ、もとは「祖国の危機[注釈 4]」から脱するための臨時的な独裁機構であったが、次第に国民公会の最も重要な機関となり、恐怖政治[注釈 5]を運営して革命を推進した。

初期にはダントンが、続いてロベスピエールが主導したが、テルミドール9日のクーデターの後は形骸化した。
概要ダントン逮捕の命令書、公安委員6名と保安委員8名の署名が判別できるがこのように一定数の署名を必要とした[注釈 6], 1794年3月30日付け

「公共の安全(サリュー・ピュブリク)」とは、個々の安全よりも常に優先される[注釈 7]人民全体にかかわるすべてを安んずることを意味したため、人民主権の名の下に行使に制限はなく、あらゆる行為は正当化できた。この観念が人民の独裁の基盤であった。歴史学者マチエによれば、フランス革命に成立した革命制度のほとんどが全期間において絶えず独裁であった[6][注釈 8]が、公安委員会はその最たるもので、対外戦争と内戦による危機に迅速に対応するために独裁機構として整備されていった常任委員会の一つである[注釈 9]。これは国民公会内の機関で、公会議員で構成され、定期的な公会への報告義務があった。大臣は別にいたが、事実上の政府であったため、その成立からテルミドール9日のクーデターまでの期間を、公安委員会政府と呼ぶ。審議は常に非公開とされ、非常に閉鎖的な組織であった[注釈 10]

執行権の対象は「全てのこと」に及び、緊急時には臨時立法や超法規的な行政命令を行使できたが、警察権[注釈 11]司法権を持たず、財政にも関与できないなど、報告義務以外にもいくつか制限があり、命令書が発効するには少なくとも公安委員の3分の2以上が参加する行政会議で委員の過半数の署名が必要だった[7][注釈 12]。このために公安委員会は、国を支配する委員会独裁ではあったが、よく言われるようなロベスピエールの個人独裁というのは間違い[注釈 13]で、独裁の実態は少人数の合議制(または寡頭制)であった。各分野は、複数の部門、部局、後には内部の各執行委員会に細分化されており、公安委員には各々に管轄が決められていて、委員会内の権力は分割されて1人に権限が集中することはなかった。公安委員会全体としては実際的には通常の国家での内閣の性格を持っていた[注釈 14]

また公安委員会は街頭の襲撃から身を守るほどの武力も持たなかった[8]。初期の革命の担い手であった能動的市民は続々と義勇兵などで出征して首都パリには不在で、国民衛兵隊は自治市会(パリ・コミューン)の直接の指揮下にあり、その48地区(セクション)は支持党派によって態度が異なった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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