公孫度
後漢
遼東太守・武威将軍・永寧郷侯
出生和平元年(150年)
洛陽
死去建安9年(204年)
?音G?ngs?n Du
字升済
別名初名: 豹
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公孫 度(こうそん たく /こうそん ど、150年 - 204年)は、中国後漢末期の群雄。字は升済。初名は豹。幽州遼東郡襄平県の人[1]。家系は公孫氏。父は公孫延。子は公孫康・公孫恭。孫は公孫淵・公孫晃。 父は玄菟太守の公孫?に官吏として仕えていた。公孫?の早死した子の名が、公孫度の初名と同じ「豹」だったという理由で可愛がられ、その援助の下で学問を学んだ。 建寧2年(169年)、霊帝が有道の士を推挙するよう詔を下すと、公孫度は謝弼や陳敦とともに回答し、みな郎中に任じられた[2]。その後、尚書郎から冀州刺史に転じたが、謡言を理由に職を追われた。 中平6年(189年)、董卓の中郎将となった同郡出身の徐栄の推挙で、遼東太守に任じられる[3]。しかし地元には彼の出自を軽んじる名族がいくつもあったため、先んじてこれらの家を罪に当てはめ百余家を滅ぼした。 初平元年(190年)、中原の混乱を知った公孫度は、側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位を狙うべきだ」「讖書(予言書)では『孫登が天子になる』というが、私の姓は公孫、字は升済であり、升とはすなわち登のことである」と語り、独立の意志を露わにする。遼東から海を隔てた先にある青州東莱郡に軍を派遣して攻略し、この地に営州刺史を置いた。自らは遼東侯・平州牧を名乗り、父の公孫延に建義侯の称号を追贈し、また漢の二祖(劉邦・光武帝)の霊廟を建立した。 襄平の名門をことごとく滅ぼし支配を固める一方で、高句麗や烏桓を討伐し功績を挙げ、董卓死後に実権を握った曹操に賞され、武威将軍・永寧郷侯の地位を与えられた。しかし公孫度はこの地位に不満だったため、朝廷から贈られた印綬は武器庫にしまいこんだ。 建安9年(204年)に死去。子の公孫康が位を相続した。 『隋書』によると、高句麗の東明王の子孫の仇台に娘を嫁がせた[4][5]。 公孫延
生涯
系譜
公孫恭 公孫淵 公孫脩
出典
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 公孫度伝 s:zh:三國志/卷08#公孫度
公孫度を題材とした作品
三国志外伝 「公孫度」 (小説、宮城谷昌光、文藝春秋)
脚注^ 『後漢書』謝弼伝では玄菟郡出身とする。
^ 『後漢書』謝弼伝。
^ 『後漢書』袁紹伝では中平元年(184年)とする。
^ ?国磐
表
話
編
歴
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
太祖武皇帝曹操
巻2 文帝紀
文皇帝曹丕
巻3 明帝紀
明皇帝曹叡
巻4 三少帝紀
斉王曹芳
高貴郷公曹髦
陳留王曹奐
巻5 后妃伝
武宣卞皇后
文昭甄皇后
文徳郭皇后
明悼毛皇后
明元郭皇后
巻6 董二袁劉伝
董卓
李?
郭
袁紹
袁譚
袁尚
袁術
劉表
巻7 呂布臧洪伝
呂布
張?
陳登
臧洪
陳容
巻8 二公孫陶四張伝
公孫?
公孫度
公孫康
公孫恭
公孫淵
陶謙
張楊
張燕
張?
張魯
巻9 諸夏侯曹伝
夏侯惇
韓浩
史渙
夏侯淵
曹仁
曹純
曹洪
曹休
曹肇
曹真
曹爽
曹羲
曹訓
何晏
ケ?
丁謐
畢軌
李勝
桓範
夏侯尚
夏侯玄
巻10 荀ケ荀攸賈?伝
荀ケ
荀ツ
荀?(中国語版)
荀?(中国語版)