公子雍(こうしよう、? - 紀元前305年)は、中国戦国時代の秦の公子。姓は?。恵文王の庶子で武王・昭襄王・公子壮・公子池・陽君(公子?)・高陵君(公子?)の異母兄弟。のちに昭襄王に対し庶長の公子壮に加担し庶長壮の乱、または季君の乱と呼ばれる反乱を起こした。
紀元前307年、秦の武王が崩御し、異母兄弟の公子稷が王位に就き昭襄王となった[1]。これに不満を持った公子雍の兄弟である公子壮は自分同様に公子稷の即位に不満を持つ他の公子や大臣らの勢力を糾合し、紀元前305年に昭襄王に対して反乱を起こしたが昭襄王の母の宣太后の異母兄弟である魏?によって鎮圧され、乱に加担した恵文后・公子壮らとともに公子雍も処断された[2][3]。
脚注^ 『史記』巻七十二・穣侯列伝:武王卒,諸弟争立,唯魏漉ヘ為能立昭王。昭王即位,以壕ラ将軍,衛咸陽。誅季君之乱,而逐武王后出之魏,昭王諸兄弟不善者皆滅之,威振秦国。昭王少,宣太后自治,任魏壕ラ政。
^ 『史記』秦本紀第五:庶長壮与大臣・諸侯・公子為逆,皆誅,及恵文后皆不得良死。
^ 『古本竹書紀年』魏紀:秦内乱,殺其太后及公子雍・公子壮。
参考文献
『史記』巻七十二「穣侯列伝」、秦本紀
『古本竹書紀年』