公娼制度
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公娼(こうしょう)とは、娼婦売春婦)のうち、公に営業を許された娼婦[1]をいう。公の営業許可を得ていない私娼に対する。
概念・大要
定義・概念

山下英愛は公娼制度を「国家や都市で一定基準のもとに女性の買春を公認し、売買春を適法行為とみなすこと」と定義している[2]

近代公娼制度について、秦郁彦ナポレオンの戦争で性病が兵士に流行したことがきっかけで19世紀初頭に始まったとし[3]、また藤目ゆきは「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」と定義したうえで、近代公娼制度はフランス政府で確立し、その後ヨーロッパイギリス、日本にも導入されたと指摘している(「性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ」[4]

眞杉侑里は、日本の近代公娼制について、1872年(明治5年)の太政官達295号(娼妓解放令)を画期として、「前近代のそれとは隔絶する形で再構成された売春統制政策であり、娼妓が届出を行う事によって稼業許可を与え、一定の制限区域(貸座敷指定地)でのみ営業を認めるものであった」と述べている[5]。また、「近代公娼制度はその成立段階に於いて人身売買を禁止(「娼妓解放令」)し、以降もその方針は継続するものであり、再編された公娼制度にあっては並存すべきものといえる」と指摘したうえで、近代公娼制における人身売買的側面の研究を行った[5]

つまり、私娼を禁じて取り締まる一方で、年齢その他の条件に合えば合法として登録認可し、性病防止のための検査などを義務づけて行うものである。また営業範囲について、一定区画でのみの場合(集娼制)と制限がきつくない場合(散娼制)がある。
実際

日本では集娼制をとり、その多くは江戸時代からある遊廓という日常生活も区画内に制限する形式を受け継いだ。これは九州においてはマリア・ルス号事件からの外国人の目を気にした面も指摘されるし、日露戦争後の満州大連においては現地の目を気にしたのが大きな一因とも言われる。

同じようにフランスなどでは、娼婦の館からの外出が制限されていた。明治初めから娼妓(娼婦)の自由意志による営業を原則としつつも、この遊廓・集娼制という閉鎖環境は女衒を通じた前借金という契約慣行と合わさって、無知につけ込んだ不正な契約や搾取が横行したりもする温床ともなり、公娼廃止の運動に力を与えた。(強い不正行為が全体の中で占める比率は高くないことを示す統計もあり、一般には認識が固まっていない。)

このような条件付き公認娼婦という制度が古くから生じてきた理由として、私娼の取り締まりの難しさが存在する。自由恋愛の金銭援助とさまざまな形態の私娼との区別が付きにくいこと、貧しさによる売春への流れを防ぐ有効な方法がないこと、明確に非合法化すると犯罪組織を引き入れやすいこと、などである。誘拐・人身売買の監視の便利ということもすでに江戸初期の遊廓設置の名目にあった[6]。近代になっては性病検査を彼女等が避けごまかす傾向が強かったという事情もある(理由は恥ずかしさ・営業を続けるため・費用・女性の自覚症状のうすさ・性病の害の認識が発達途上だったこと)。

近代公娼の拡大と共に、公娼への反対運動も19世紀から存在したが、思想・価値観による傾向も強く、性病や労働環境などの実際の改良意見よりも、廃止と存続を廻る意見が多かった。第二次世界大戦前に欧米中心に公娼廃止が広がったのは、欧州女性の国際的人身売買の受け皿として、南米の娼館があったからだという。

現在も、オランダシンガポールゲイラン地区)など、貧富の差やエイズ防止などから売春を合法化する国は存在する。新しいその中には免許制や安全のための公的管理など公娼制度といえるものがある[7]
古代・中世の公的な娼婦の制度
ギリシア

公娼制度の歴史は古く、古代ギリシアソロンはアテナイに国営の公共娼家「ディクテレオン」を設立し[8]、服装も統制され、儀礼などへの参加も禁じられていたといわれる[3][9]。アテナイの公娼は下級売春婦であった[10]
ローマ帝国

ローマ帝国でも公娼と私娼があり、売買奴隷、捕虜、さらわれた女性や捨て子などが娼婦となった[10]。ティベリウス、カリグラ皇帝などは、登録制や課税等の統制政策をとり、娼婦は一定の服装や、髪を黄色に染めることなどが命じられた[9]。ユスティヌアヌス皇帝は、仲介業者や娼家経営者を規制する法令を出した[9]
中国
周・漢「妓女」も参照

古代中国の荘王も公娼制度または管理売春制度を創設していた[3]

捕虜女性が性奴隷になるのは古代中国でも同様で、帝国の時代に良民と賤民を分ける身分制度が成立すると、性奴隷の供給源は罪人の妻などに変化した(籍没という)[11]

では征服された国の女性が妓女として皇帝や軍人・官僚を喜ばせた。また金王朝に破れた北宋の女性は連行され、洗衣院に入れられ性奴隷とされた。明の初期には前代の元朝の支配層であったモンゴル人女性が後宮に入っている[12]
金朝の洗衣院詳細は「洗衣院」を参照

1126年靖康の変北宋金王朝に破れた。靖康元年(1126年)12月初10日、宋官僚の呉幵と莫儔は、親王、宰執、宗室の娘各二人、民間や楽団の女性各500人と宝物を献上し、宗室の女性は金の二首領粘没喝(完顔粘罕)と完顔斡離不(完顔宗望)にささげられた[13]。その代わり、黄河以南の地を宋側に保全してもよいとの許しを得ることができた。元北宋の皇太后皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女(宗姫)、女官宮女、官吏や平民の女性は金に連行され、洗衣院という官設の妓院に入れられ、性的奉仕を強要された[14][15][16]。幼い皇女も洗衣院で育てられ、成長後に洗衣院の娼婦となった[17]南宋の初代皇帝高宗の母の韋氏、妻の?皇后や娘の趙仏佑、趙神佑も含まれていた[18][19][20]。金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い達195名、族姫1241名、女官479名、宮女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性達3319名の計11635名であった[21]。宋王宮の女性捕虜は、金額を付けられて戦争報酬・賞与とされ[22]、金の将兵に分け与えられた。『呻吟語』には「十に九人、となりて、名節を失い、身もまた亡ぶ」「辛うじて妓楼を出ても、即ち鬼籍に上る」。また、ある鍛冶屋によれば「八金を以って娼婦を買う、すると実に親王女孫(皇族の孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人(科挙合格者の妻)なり」ともある[23]。等級に関係なく女性達はみな女真人から陵辱を受けたといわれ、『南征録匯』には「開封府の港には人の往来、絶え間なく続き、婦女より嬪御まで妓楼を上下し、その数五千を超え、皆盛装を選び出ず。選んで収むること処女3000、入城を淘汰し、国相(完顔宗翰)より取ること数10人、諸将より謀克までは賜ること数人、謀克以下は賜ること一、二人。韋后、喬貴妃ら北宋後宮は貶められ、金国軍の妓院に入れられる」とある。金の兵から彼女らは陵辱を受け続け、「掠められた者、日に涙を以って顔を洗い、虜酋(金皇帝・皇族・将帥など)共、皆婦女を抱いて、酒肉をほしいままにし、管弦を弄し、喜楽極まりなし」[24]。汚辱に耐えかねた欽宗の皇后朱氏は入水して自害した[25]


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