八雲_(装甲巡洋艦)
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八雲

基本情報
建造所バルカン造船所(ドイツシュテティーン)[1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種装甲巡洋艦[2](一等巡洋艦)
艦歴
計画第一期拡張計画[3](明治29年度)
起工1898年2月26日[2]
進水1899年7月8日[2]
竣工1900年6月20日[2]
除籍1945年10月5日
その後1945年12月1日特別輸送艦指定
1947年4月1日にスクラップとして処分
要目(竣工時)
排水量9,695英トン
全長124.7 m
水線長124.65 m
最大幅19.6 m
吃水7.2 m
ボイラーベルヴィール式(ドイツ語版)石炭専焼缶 24基
主機直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基
推進2軸
出力15,500hp
速力20.5ノット
航続距離7,000カイリ / 10ノット
乗員648名
兵装20.3cm(45口径)砲 連装 2基
1895年型 15.2cm (40口径) 砲 単装 12基
毘式 1894年型 8cm (40口径) 速射砲 単装 12基
47mm単装砲 12基
45.7cm水上魚雷発射管 単装 1基
45.7cm水中魚雷発射管 単装 4基
装甲舷側:178mm
上部水線帯:-mm
甲板:51mm
主砲塔: -mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
バーベット部:-mm
司令塔:356mm
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八雲(やくも)は大日本帝国海軍日露戦争前にドイツから購入した最初の装甲巡洋艦。六六艦隊の装甲巡洋艦の第一期拡張計画で整備された艦で、日露戦争から太平洋戦争の戦後まで活動した。
艦型

船体形状は典型的な平甲板型船体であり、凌波性を良くするために乾舷を高く取られており、艦首水面下には未だ衝角(ラム)が付いている。

主砲は新設計の「20.3cm (45口径) 砲」を楕円筒形の連装砲塔に纏め、1番主砲塔、司令塔を組み込んだ操舵艦橋、単脚の前檣、等間隔に並んだ三本煙突の後ろに艦載艇置き場、ダビット(ボート・クレーン)の基部を兼ねる単脚の後檣、2番主砲塔の順である。「15.2cm (40口径) 砲」は12基も載せられ、甲板砲廓部4基に舷側に2基の片舷6基が配置された。他には水雷艇対策に艦首・艦尾と上甲板に「8cm (40口径) 単装速射砲」が12基、47mm単装速射砲12基が前檣・後檣・上甲板に分散配置された。
火砲等

大日本帝国海軍は列強に先駆けて戦艦・巡洋艦の搭載砲の口径統一に取り組んだ。そのため、本艦を含む6隻の一万トン級装甲巡洋艦の搭載砲は全て一貫していた。この事は兵の教育と弾薬の補給に非常に有利であった。これは、明治初期の艦艇の備砲の口径や使用方法が艦ごとにバラバラで、砲弾の互換性や兵の応用が利かなかった戦訓によるものであった。

本級の主砲は新設計の「20.3cm(45口径)砲」である。これを楕円筒型の連装砲塔に収めた。この砲塔は左右150度に旋回でき、仰角30度・俯角5度であった。重量113kgの砲弾を毎分2発の間隔で発射できた。射程は仰角30度で18,000mである。副砲は「1895年型 15.2cm (40口径) 砲」を採用し、この砲は毎分5発を発射できたが、熟練した兵ならば7発が可能であった。45.4kgの砲弾を俯仰角度は仰角20度・俯角5度で、仰角20度で9,140 mの射程を持っていた。他に、ヴィッカーズ社の「1894年型 8cm (40口径) 速射砲」を単装砲架で12基、47mm単装速射砲を12基、45.7cm魚雷発射管を単装で、艦首部水上に1基、舷側部水中に4基を装備した。
機関

ボイラーは当時の最新型高性能機関であるフランス製のベルヴィール式石炭専焼缶を24個。これに直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進とし、出力15,500hp、速力20.5ノットを発揮した。航続距離は石炭1,300トンで速力10ノットで7,000海里と、当時にして大航続距離を誇った。
終戦時の状態

終戦時兵装

40口径 15.2cm砲 単装 4基

40口径八九式12.7cm連装高角砲 2基(主砲 20.3cm連装砲塔 撤去跡に設置)

8cm高角砲 単装 1基

九六式25mm機銃

3連装 2基

連装 2基

単装 2基 



要目

長さ:124.66m、幅:19.58m、深さ:7.24m

排水量:10,439トン (基準排水量 9,010トン)

速力:※ 整備状況が悪かったようで、9ノットが「いっぱいいっぱい」であったとの回想あり


艦歴復員船としての役目を終え、舞鶴港に停泊する八雲(1946年8月)

シュテッティン・ヴルカン造船所で建造された。1900年6月20日に領収し、同年6月22日に日本へ回航[4]。同年8月30日、横須賀に到着した[5]

第2艦隊第2戦隊に所属、日露戦争では黄海海戦日本海海戦に参戦。後者では敵艦アドミラル・ウシャーコフを撃沈するなどの活躍を見せた。その後、第3艦隊旗艦として樺太占領の際の護衛を果たす。

第1次世界大戦では再び第2艦隊に所属、青島攻略に参加。

その後は、大正から昭和にかけて練習艦隊を編成し、少尉候補生の遠洋航海に従事し、本艦は1939年(昭和14年)まで使用された。その間、1932年(昭和6年)に巡洋艦から海防艦へと類別変更。

旧式ながら太平洋戦争にも従軍。1942年7月1日、一等巡洋艦に類別変更[6]飛鷹配属を命じられた山西義政(後のイズミ創業者)は、乗り組むはずの同艦が出撃していたため、補給物資とともに八雲に乗艦してトラック島へ追いかけた思い出を回想している[7]

1945年(昭和20年)5月には20.3cm連装主砲を12.7cm連装高角砲に換装し対空能力の向上が図られた。呉空襲にも生き残り、終戦時には中破状態ながら航行可能だったため、1945年12月1日に呉地方復員局所管の特別輸送艦に指定された[8]。しかし、建造から45年以上経過した老朽艦だったため、北支台湾など比較的近距離の輸送に使用された。衝角のある古い船体構造であったことから、米軍は八雲の姿に非常に興味を持ったとされる[9]

1946年6月26日、特別輸送艦の指定を解かれ[10]、7月20日から翌年4月[9]にかけて日立造船舞鶴造船所で解体された。なお、廃艦となる「八雲」のドイツ製の調度品は、中華民国に返還されるにあたり軍艦への復旧工事がされていた雑役船阿多田にのせられた。
艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
回航委員長


東郷正路 大佐:1899年3月22日 - 1899年12月25日

艦長


東郷正路 大佐:1899年12月25日 - 1900年11月1日

富岡定恭 大佐:1900年11月1日 - 1901年7月6日

安原金次 大佐:1901年7月6日 - 1903年6月25日

松本有信 大佐:1903年6月25日 - 1905年11月2日

斎藤孝至 大佐:1905年11月2日 - 1906年4月7日

仙頭武央 大佐:1906年4月7日 - 1907年7月1日

外波内蔵吉 大佐:1907年7月1日 - 1908年8月28日

西山実親 大佐:1908年8月28日 - 1908年12月10日

秀島七三郎 大佐:1908年12月10日 - 1909年3月4日

中野直枝 大佐:1909年3月4日 - 1909年12月1日


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