八路軍
[Wikipedia|▼Menu]
八路軍を描いた絵画中華民国旗を持つ八路軍

八路軍(はちろぐん、パーロぐん、パールーグン、簡体字:八路?、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: b?lu-j?n)とは、日中戦争時に華北で活動していた中国共産党軍の通称である。1937年8月22日に毛沢東朱徳が率いる中国工農紅軍が、中国国民政府国民革命軍に編入されて第八路軍と呼称されたことに由来している[1]。国民革命軍が戦時用の編制に移行していく中で、9月12日に第十八集団軍に改称されたが、共産党内では「八路軍」が党員用の公式名称として使われ続けた。9月23日に第二次国共合作が成立している。華南で活動していた新四軍と共に現在の中国人民解放軍の前身になった。
歴史中華ソビエト共和国の軍旗八路軍総司令部八路軍兵士

1927年、湖南省で蜂起した秋収起義に失敗して落ち延びた毛沢東率いる共産部隊と、同時期に江西省で蜂起した南昌起義から敗走した朱徳率いる共産部隊が、湖南・江西省間の井崗山で合流して、1928年5月に組織された中国工農革命軍・第四軍が、後の八路軍の原点である。当時の中国大陸では各方面に散った共産党員が大小様々な形で武装蜂起を繰り返しており、第四軍もそれらの一つであった。同月末に中国工農革命軍は、中国工農紅軍(紅軍)に改称している。朱毛紅軍とも呼ばれた第四軍は、毛沢東と朱徳の二人三脚の運営で数年の間に最大規模の共産党部隊に成長し、1931年11月に江西省瑞金を占領して中華ソビエト共和国を打ち立てた。

1932年、共産党を最危険視していた中国国民党?介石は江西省に大軍を動員して瑞金まで迫った。1934年7月に毛沢東は瑞金を放棄し、長征を開始した。1936年10月までに紅軍の各部隊は、陝西省に順次到着して延安に根拠地を築いた。これを追う?介石は新たな大軍を向かわせて延安を包囲し、共産党軍は再び壊滅の危機に瀕した。しかし、1936年12月にコミンテルンが首謀した西安事件が発生し、張学良らに監禁された?介石は、共産党との即時停戦と抗日統一戦線の結成を承諾した。同時に第二次国共合作への道筋も付けられた。危機を脱した毛沢東は中国各地への浸透工作に着手して共産党に協力的な地域を村落から都市にまで広げていった。毛沢東が定めた三大紀律八項注意の軍紀は人心掌握の助けになっている。毛沢東思想人民戦争理論人海戦術に基づいた共産党勢力は草の根的に増殖して遊撃兵力の幅広い展開を可能にした。

1937年7月、盧溝橋事件から日中戦争が始まると8月22日に中国工農紅軍は、国民党政府国民革命軍に編入されて第八路軍と呼称された。国民革命軍が戦時用の編制に移行していく中で、9月12日に第十八集団軍に改称されたが、共産党内では八路軍が党員用の公式名称として使われ続けた。9月23日に第二次国共合作が成立すると華南に潜伏していた紅軍部隊も江蘇省に集められて新編第四軍(新四軍)として国民革命軍に編入された。国民党軍が交戦地の前線で日本軍と対峙する中で、八路軍は主に日本軍の後方拠点への攻撃を行ない、鉄道や鉱山施設などの破壊活動にも従事した。八路軍の活動によって、日本軍の安全な行動範囲は市街地周辺のわずかな領域に限られていた[2]

1945年8月、日本軍の降伏が目前に迫ると、毛沢東は八路軍と新四軍を併せて中国解放区抗日軍に再編改称し、国民革命軍から分離した。9月の日本軍武装解除後に再開された国共内戦の中で共産党軍は優位に立った。ソ連は満州で接収した関東軍の装備をそのまま共産党軍に与えた[3]。共産党軍が初めて保有した戦車功臣号も関東軍兵器の転用だった。また日本兵を含む残留日本人を積極的に編入して軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった共産党軍は林弥一郎少佐以下関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立して航空部隊を養成した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef