八甲田雪中行軍遭難事件
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年2月)


一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2021年1月)
出典検索?: "八甲田雪中行軍遭難事件" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

八甲田雪中行軍遭難事件
場所 日本 青森県八甲田山
日付1902年1月24日
原因天候不順、認識不足
死亡者199人
テンプレートを表示
遭難し、直立したまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の像事件当時の陸軍大臣寺内正毅の揮毫による後藤伍長像の碑文

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年明治35年)1月日本陸軍第8師団歩兵第5連隊青森市街から八甲田山田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故である[1]
雪中行軍

日本陸軍1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は10年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなる。

雪中行軍は青森歩兵第5連隊210名が1902年1月23日から、弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名が1月20日から2月1日までそれぞれ異なる経路を行軍した。
行軍の目的

青森
歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査することが主な目的であった。対象となった経路は「青森 - 田代 - 三本木 - 八戸」間で、最大の難所である青森 - 田代温泉間の雪中行軍演習は片道約20km、1月23日より1泊2日の予定で計画された[2]。行軍経路は田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。

弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実施してきた演習の総決算であった。経路は「弘前 - 十和田湖 - 三本木 - 田代 - 青森 - 浪岡 - 弘前」間で総延長224km。日程は1月20日より11泊12日の予定であった[3]

なお、両連隊は、日程を含め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた[注釈 1]。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある[4]
行軍の準備
弘前第31連隊

弘前第31連隊が行軍命令を通知したのは1901年(明治34年)12月20日頃で、出発の1ヵ月前だった[3]。指揮は陸軍歩兵大尉福島泰蔵。隊は志願者37名の少数精鋭に東奥日報から従軍記者1名を加えた計38名で編成された。出発に先立ち、同隊は沿線の村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼した[3]。また、木こりマタギ、農家から情報収集し、冬山では汗をかかないように配慮することと、足の凍傷予防として靴下を3枚重ね履きした上から唐辛子をまぶし、さらに油紙を巻くなどの防寒の知識を得て実践していた[3]。服装は絨衣袴・冬襦袢・冬袴下・外套を着て手套・水筒・雑嚢・背嚢を装着し藁沓を履き寒地着各一を付着した[5]。行軍中は縄で隊員同士を1列に結んだ[3]
青森第5連隊

青森第5連隊の第2大隊は1902年(明治35年)1月18日、行軍計画の立案者である陸軍歩兵大尉神成文吉の指揮で予行演習を行った。これは中隊規模(約140名、うちかんじき隊20名)の将兵とソリ1台で屯営 - 小峠間(片道約9km)を往復したもので、好天に恵まれて成功した。これを受け、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口ユは屯営 - 田代間は1日で踏破可能と判断。1月21日、山口は行軍命令を下し、23日に出発することを定めた[6]

行軍隊は210名の大編成で、1日分の食糧(米、豆、缶詰漬物清酒)、燃料(木炭)、大釜と工具など合計約1.2tをソリ14台で曳く計画だった。ソリの重量は1台約80kgあり、4人以上で曳くこととなる。加えて行李に詰めた昼食用の弁当1食分、道明寺粉1日分、餅2個(1個50匁=187.5g)の各自携行が命じられ、懐炉の使用が推奨された[7][8]

出発前日、同行する軍医から凍傷の予防と処置に関する事前注意があった。そこでは手指の摩擦や足踏などに加え、露営ではなるべく「睡眠セザル様注意スベキコト」と指示された[9]。将兵の十分な休息は計画しておらず、後述のごとく、物心両面の備えを欠いていた。
遭難部隊・青森歩兵第5連隊遭難の3ヶ月程前に撮影された歩兵第5連隊の様子

遭難した歩兵第5連隊は青森衛戍地としていた。部隊の指揮を執っていたのは、第2大隊第5中隊長で陸軍歩兵大尉神成文吉であった。神成大尉は羽後国秋田郡鷹巣村(秋田県北秋田郡鷹巣町を経て、現在は同県北秋田市の一部)出身で、陸軍士官学校ではなく陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物で、平民の出身である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:118 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef