八田與一
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はった よいち
八田 與一

生誕1886年2月21日
石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)
死没 (1942-05-08) 1942年5月8日(56歳没)
長崎県五島列島
国籍 日本
出身校第四高等学校
東京帝国大学工学部土木科
職業水利技術者
著名な実績烏山頭ダム建設
配偶者外代樹(とよき)
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八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年明治19年〉2月21日 ? 1942年昭和17年〉5月8日)は、日本水利技術者
生い立ち - 台湾へ

1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後[1]台湾総督府内務局土木課の技手として就職した[2][3]

日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義台南高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった[4]台南水道の事業で実地調査を共にするうちに、八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大?や烏山頭ダムにその経験が活かされることになった[4]1919年に浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立している。浜野像は戦時中の金属供出令で資材に流用されたが、奇美実業創業者の許文龍により再制作、2005年に元の水源地に設置されている[4]

八田は、28歳で当時着工中であった桃園大?(中国語版)の水利工事を一任されたが、これを成功させ高い評価を受けた。当時の台湾は、まさに上述のインフラストラクチャー建設のまっただ中で、水利技術者には大いに腕の振るい甲斐のある舞台であった。31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき、当時16歳)と結婚した。
嘉南大?「嘉南大?」も参照

1918年大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官佃渓??組合(のち嘉南大?組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大?(かなんたいしゅう)と呼ばれている。ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院なども建設した。爆発事故の翌年には関東大震災が起こり予算削減の為に作業員を解雇しなければならなかった。八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした[5]烏山頭ダム。下村海南によって珊瑚潭の美称が与えられている(2004年3月11日)

2000年代以降も烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダム(中国語版)に譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も八田によるものであった。また、八田の採った粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートをほとんど使用しない)という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。ダム公園内に復元された八田與一の住居
台湾総督府復帰 - 殉職

1939年(昭和14年)、八田は台湾総督府に復帰し、勅任待遇技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また1935年(昭和10年)に中華民国福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に客船「大洋丸」に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、「大洋丸」は五島列島付近でアメリカ海軍潜水艦グレナディアー」の雷撃で撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した[6]。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられる[7]

日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
年表

1910年(明治43年)

7月
東京帝国大学工学部土木科を卒業する[1]


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