八田一朗
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八田一朗(左)と三笠宮崇仁親王(右)

八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本レスリング選手、指導者政治家。日本レスリング界の父であり[1][2][3]参議院議員も1期務め、また東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現江田島市)出身[4]
来歴・人物

父親が海軍兵学校の教官だったため幼少時代を江田島で過ごし[4]、その後父親の軍港地への転勤で佐世保などで育つ[5]。談水小学校3年時に神奈川県の小学校に転校[4]旧制開成中学校に入学後[4]旧制海城中学校に編入学し[4]早稲田第一高等学院を経て1932年早稲田大学政治経済学部を卒業[4]。同郷の織田幹雄は早稲田の一学年上にあたる[6]

早大在学中の1929年、所属した柔道部がアメリカ遠征を行うが、レスリングに敗北。負けたことで1931年、八田は同志数名と大学にレスリング部を創設した[1][7]。これが日本のレスリングの始まりである。レスリング部創設に時間がかかったのは、柔道家でありながらレスリングを重要視するなど、舶来かぶれの異端者と周囲の迫害が激しかったためである[1][8]。当時、八田は体育協会から派遣されて嘉納治五郎の秘書をしていたが[9]、嘉納からは「レスリングを始めるのもよいが、五十年かかるよ」と言われたという。八田は嘉納の言葉を宝物のように心にとどめた[10]。八田の晩年の弟子・松浪健四郎[11]は、「生まれ故郷の柔道界に敵対心を持ち続けることで、己の闘志を鼓舞させ、不退転の決意を持続させることができたのではないか」と述べている[12]

1932年4月、八田は同志と共に「大日本アマチュアレスリング協会」を創立する[13]。しかし体協には認められず、他にオリンピック目当てのレスリング団体が雨後のタケノコのように名乗りを上げ、他団体のけん制によって妨げられたが仲介者により「大日本アマチュアレスリング協会」と講道館派と「大日本レスリング協会」の三団体から2 - 3人ずつが出場するという折衷案で体協の公認を得て、同年のロサンゼルスオリンピックに出場[14]。しかし八田以下6人の柔道高段者がいずれも敗北。このころはまだレスリングは柔道の亜流との考え方が強かったが、八田は柔道とレスリングの違いをはっきり認識、単身アメリカに渡りレスリング修行。帰国後、早大の大隈講堂の隅にレスリング専門道場を作った。これで日本レスリングの基礎が固まった。

先のオリンピックによる敗北で、そのためだけに結成された他の団体は自然に消滅し「大日本アマチュアレスリング協会」だけが存続して今日の日本レスリング協会[注 1]に発展した。

二度に渡る兵役、6年余を中国で従軍[15]除隊を経て戦後、日本レスリング協会第3代会長(1946年4月 - 1983年4月)。40年近くの長きに渡り会長を務め、その強烈な個性とカリスマ性で日本を世界に互して戦えるレスリング王国に築き上げた[1][16][17][18]。戦前から築き上げてきた国際的な人脈がものをいい、日本レスリング協会は、国際レスリング連盟(FILA)への復帰が認められ、レスリングは他の競技に先駆けて1949年、国際大会に参加が認められた[12]。アメリカスポーツ界を見学した織田幹雄の助言を受け1950年、日米対抗試合開催[19]。それまで力まかせの日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げた[19]

1953年「自分の敵は許さない」「自分の邪魔は切って捨てる」狷介な八田に対してボイコット事件が起きた[10]。早稲田出身の八田は役員も早稲田OBで固めたため、慶応や明治のOBから反乱が起った[10]。しかし反乱は失敗に終わり、以後は完全に八田の天下となった[10]。八田は自分の主義は変えないため、息子ともよくぶつかった[10]。八田自身、著書で「私の即決主義での説明不足もある。私は俳句をやるが、俳句というものはすべて省略でいく。だから、私の言動も、誤解を招くのだろう」と話していた[10]。八田は高浜虚子の近所に住み、虚子に師事したことから、大家・虚子の空気を吸ったという意味で、句集『俳気』を出していた[10]

1954年、世界レスリング・フリースタイル選手権大会東京が招致され、八田も監督として日本チームを率いた1952年ヘルシンキオリンピックでは石井庄八が戦後初となる金メダルを獲得したのを始め、金5個を量産した1964年東京オリンピックを筆頭にオリンピックで金20、銀14、銅10のメダルをもたらし、柔道、体操に並ぶ日本のお家芸とした[1]

その間、世界大会でダントツの成績を残していた当時渡航が難しかったソ連に選手派遣を実現させたり、中国北朝鮮など多くの国を訪問、スポーツを通じた国際交流を図る。大韓オリンピック委員会(KOC)(大韓体育会内)委員長などを務めた李相佰が早稲田の後輩という関係で、戦後の韓国レスリングの面倒を積極的にみたり[20]1953年頃からは、レスリングを国技とみなす国が多い西アジア諸国に盛んに選手を送り出した。アフガニスタンの専門家として世に出た松浪健四郎はもともと、八田が松浪を同国にレスリング指導者として派遣したもの[12][21]。八田が海外遠征に送り込んだ選手は延べ約1000人に及ぶ[12][22]。その中には、渡米してそのままニューヨークにとどまり、レストラン「BENIHANA」の成功で大富豪となり、レスリング協会に多額の寄付をしたロッキー青木らも含まれる[12][23]


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