八海事件
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最高裁判所判例
事件名強盗殺人被告事件
事件番号昭和29年(あ)第1442号
1957年(昭和32年)10月15日
判例集刑集11巻11号2731頁
裁判要旨
判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認の疑があつて、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認めるときは、刑訴第四一一条第三号により原判決を破棄することができる。
第三小法廷
裁判長垂水克己
陪席裁判官島保 河村又介 小林俊三
意見
多数意見全員一致
意見なし
反対意見なし
参照法条
刑事訴訟法411条3号
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最高裁判所判例
事件名強盗殺人被告事件
事件番号昭和34年(あ)第2148号
1962年(昭和37年)5月19日
判例集刑集16巻6号609頁
裁判要旨
審理不尽、理由不備の欠陥があり、この欠陥はひいて原判決を破棄するのでなければ著しく正義に反するものと認められる程の事実誤認があるとして、原審に差し戻した事例
第一小法廷
裁判長下飯坂潤夫
陪席裁判官齋藤悠輔 入江俊郎 高木常七
意見
多数意見下飯坂潤夫 齋藤悠輔 入江俊郎
意見なし
反対意見高木常七
参照法条
刑事訴訟法411条3号
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最高裁判所判例
事件名強盗殺人被告事件
事件番号昭和41年(あ)第108号
1968年(昭和43年)10月25日
判例集刑集22巻11号961頁
裁判要旨
1.公判準備期日における証人の尋問終了後に作成された同人の検察官調書を、上記証人の証言の証明力を争う証拠として採証することは、刑訴法328条に違反するものではない。
2.上告審判決の破棄の理由とされた事実上の判断は拘束力を有するものと解すべきである。
3.破棄判決の拘束力は、破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであり、その消極的否定的判断を裏付ける積極的肯定的事由についての判断は、なんらの拘束力を生ずるものではない。
4.原判決には、判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認の疑があることに帰し、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められる場合にあたるとして、被告人に無罪を言い渡した事例。
第二小法廷
裁判長奥野健一
陪席裁判官草鹿浅之介 城戸芳彦 石田和外 色川幸太郎
意見
多数意見全員一致
意見なし
反対意見なし
参照法条
刑事訴訟法411条3号、328条、裁判所法4条
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八海事件(やかいじけん)とは、1951年昭和26年)1月24日山口県熊毛郡麻郷村(おごうむら、現在の田布施町)八海で発生した強盗殺人事件である。

二度の差し戻しを経て、1968年(昭和43年)の最高裁判決で被告人5人のうち、犯人が共犯者として名指しし逮捕された4人が無罪になった。

1956年(昭和31年)には本件を扱った映画『真昼の暗黒』が制作された。
事件・捜査の概要

1951年1月24日深夜、山口県熊毛郡麻郷村八海で瓦製造業を営む夫婦(ともに当時64歳)が殺害され金銭が奪われる事件が発生した。夫は刃物で頭部をめった打ちにされ、胸を鈍器で殴られて殺害され、妻は鼻と口を塞がれて窒息させられた後、鴨居から首を吊った状態で発見された。

警察の捜査の結果、窃盗の前科があって金に困っており、被害者夫婦とも面識があった経木製造業者の男X(当時22歳)が26日に逮捕された。Xが着ていたジャンパーには被害者夫と同じB型の血液型が付着していたことや(Xの血液型はO型)、事件後にXがタクシーや遊郭で使った十円札と続き番号の十円札が被害者宅に残されていたこと等の物証が存在した。Xは同日の調べに対し、自分1人で夫婦を殺害し金を奪い、さらに犯行を夫婦喧嘩に見せかけるために現場を偽装したと供述、単独での犯行を主張した。

しかし警察は現場の偽装工作が単独犯ではなく複数犯の仕業であると推定し、共犯者に関する供述を引き出すため拷問を加えた[1][2]。一方のXも、自分の量刑を軽くしたいとの思いも手伝って[3]28日に共犯者として知人ら5人の名を挙げた。この供述に基づき、同日に人夫の男性A(当時23歳)、男性B(当時21歳)、男性C(当時22歳)、男性D(当時24歳[4])の計4人が、29日に人夫の阿藤周平(当時24歳)が逮捕された。阿藤とCには窃盗の、Aには強盗と窃盗の前科があった。

Xは、事件は阿藤の主導により6人が共謀して行ったものであり、自分は従犯だったと供述していたが、ほどなくDにアリバイが成立し釈放されたのを経て、2月1日に供述を5人での共謀に変更した。

その後、阿藤、A、B、Cは取調室の密室で拷問を受け犯行を自供した。
裁判の経過・結果一審裁判所の山口地裁岩国支部

5人の被告人への判決判決日裁判所判決X阿藤ABC
1952年6月2日山口地裁全員有罪無期懲役死刑無期懲役無期懲役無期懲役
1953年9月18日広島高裁全員有罪無期懲役
(確定)死刑懲役15年懲役12年懲役12年
1957年10月15日最高裁事実誤認として差戻し?????
1959年9月23日広島高裁X単独犯行で4人は無罪?無罪無罪無罪無罪
1962年5月19日最高裁破棄差戻し?????
1965年8月30日広島高裁全員有罪?死刑懲役15年懲役12年懲役12年
1968年10月25日最高裁X単独犯行で4人は無罪?無罪
(確定)無罪
(確定)無罪
(確定)無罪
(確定)


裁判ではXは自らに関する起訴事実を認めた。しかし阿藤、A、B、Cは、捜査段階で警察官に拷問され虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である、と主張した。

またXは無期懲役が確定した1965年以降、刑務所から自分の単独犯であるとの上申書を17通最高裁に送っていたが、Xが別の共犯者をでっち上げる、他人の獄中手記を剽窃する[5]、などの問題を起こしており、また単独犯行の供述を撤回し5人での共謀を再び主張するなどしていた[6]ためにまともに取り合われず、全て刑務所の職員が破棄していたことが後に判明した。

裁判は以下の経過を辿り、最終的にXの無期懲役判決と阿藤、A、B、Cへの無罪判決が確定した。

1952年6月2日、山口地裁は阿藤に死刑判決を、X、A、B、Cに無期懲役の判決を下した。阿藤、A、B、Cは無実を主張して控訴し、検察官はX、A、B、Cに対する量刑が無期懲役では軽いという理由で死刑を求めて控訴した。(検察は全員に死刑を求刑)

1953年9月18日、広島高裁(第一次)は地裁の事実認定を支持。阿藤を死刑、Xを無期懲役としたが、他の3人は減刑され、Aを懲役15年、BとCを懲役12年とした。Xは上告せず、検察官もXに対しては上告せずXの無期懲役が確定した。阿藤、A、B、Cは無実を主張して上告した。

この判決後、阿藤、A、B、Cが無実であると認識した正木ひろし、原田香留夫両弁護士が弁護団に加わった。


@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1957年10月15日、当時の調査官寺尾正二の判断により、最高裁(第一次)は審理を高裁へ差し戻した[要出典]。

この判決後、検察側は阿藤、A、B、Cに有利な証言をしていた証人たちを偽証容疑で次々と逮捕。彼らはごく一部の証人を除き阿藤らのアリバイを否定する証言に転じた[7][注 1]


1959年9月23日、広島高裁(第二次)はこの事件をXの単独犯行と認定。阿藤、A、B、Cに無罪判決を下し、4人は8年8ヶ月間の身柄拘束から釈放された。検察は上告した。

1962年5月19日、最高裁(第二次)は審理を高裁へ差し戻した。佐々木哲蔵を団長に全国172人の弁護団が組まれた(最終的には300人)[9]

1965年8月30日、広島高裁(第三次)は第一次高裁と同じく、阿藤に死刑、Aに懲役15年、BとCに懲役12年の判決を下した。阿藤、A、B、Cは無実を主張して上告した。

1968年10月25日、最高裁(第三次)はこの事件をXの単独犯行と判断。阿藤、A、B、Cに無罪判決を下して、この判決が確定した(破棄自判)。

影響

第一次控訴審判決後、正木ひろし弁護士は『裁判官 ―人の命は権力で奪えるものか―』を、原田香留夫弁護士は『真実 ―八海裁判記―』をそれぞれ発表し、この裁判の冤罪性を国民に訴えた。さらに、その冤罪説に対し4人に有罪を下した山口地裁の裁判長判事・藤崎ラが「裁判官は弁明せず」の伝統を破り『八海事件 ―裁判官の弁明―』や『証拠 ―続八海事件―』という反論本を出したことも注目されたが、この反論本は集合時間などについて自身の判決から訂正・再訂正をする形になったため批判を浴びることになった。

1956年、映画監督の今井正は正木の著書をもとに映画『真昼の暗黒』を制作して、この裁判の冤罪性を国民に訴えた。1963年には1回目の無罪判決後結婚した阿藤の妻を題材に朝日テレビのルポルタージュ『死刑囚の妻』が全国放映された[10]

裁判は地裁から第三次最高裁まで、被告人阿藤、A、B、Cに対して、7回の判決で有罪→無罪→有罪→無罪と事実認定が変遷し、起訴から判決確定まで17年がかかる長期裁判となった。
その後

1971年(昭和46年)、無期懲役判決を受けて広島刑務所で服役していたXは事件以来20年8ヶ月ぶりに仮出所となった。Xは鉄工所に勤務しながら原田弁護士の事務所をたびたび訪問し、4人への謝罪行脚も行った。その後、仮釈放中のXは1976年(昭和51年)に広島県で27歳の男性を絞め殺そうとした容疑で逮捕され、殺人未遂罪で起訴されて裁判中の1977年(昭和52年)7月11日に49歳で病死した[11]

阿藤は1968年に手記『八海事件獄中日記』(朝日新聞社)を発表し、大阪市内で運送業を営むかたわら死刑廃止運動に奔走していたが、2011年(平成23年)4月28日、肝臓がんのため84歳で死去した[12]

日本の裁判では判決後に裁判所の外でマスコミなどに結果(勝訴、敗訴)や主張(不当判決)が書かれた紙(垂れ幕、びろーん)を被告や原告の関係者が広げて見せる行為が定着しているが、弁護士ドットコムの調査では新聞で確認できる最も古い記録が本判決の第三次上告審で掲げられた「無罪」の垂れ幕であるという[13]

中日新聞』は1988年(昭和63年)2月、富山・長野連続女性誘拐殺人事件の第一審判決(男女2人の共犯事件とされたが、被告人の女が単独犯とされて死刑を宣告された一方、共犯と疑われた男性は無罪を宣告された)を受け、社説で「刑を軽くしようとする真犯人が、無実の人を共犯者に仕立てあげる恐れ」があることを指摘した上で、その実例の1つとして本事件を挙げている[14]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 作家の広津和郎はこれを補充捜査の名を借りた「証人狩り」であると批判した[8]

出典^ 『真昼の暗黒』 31頁
^「全告白『八海事件の真相』」(中)
^ 『正木ひろし著作集 第2巻 八海事件』 432頁
^ 『真昼の暗黒』 5頁
^ 『正木ひろし著作集 第2巻 八海事件』 265頁
^ 『八海事件 裁判官の弁明』 144頁
^ 『裁判百年史ものがたり』 224-226頁
^ 『青木英五郎著作集U』 168頁
^ 『命もやして』佐々木静子、潮出版社、2014、p13、56
^ 『命もやして』佐々木静子、潮出版社、2014、p43
^「全告白『八海事件の真相』」(上)
^ 内海紀雄 (2011年5月21日). “(惜別)八海事件で3度の死刑判決の後、無罪確定 阿藤周平さん”. 朝日新聞・夕刊: p. 5 
^ “『「勝訴!」判決を知らせる垂れ幕 いつから始まった?』”. 弁護士ドットコム. 2022年12月31日閲覧。
^中日新聞』1988年2月10日朝刊オピニオン面7頁「社説 責任問われるずさんな立証」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)2月号335頁。

参考文献

正木ひろし 『正木ひろし著作集 第2巻 八海事件』 三省堂、1987年。
ISBN 9784385308821 (以下の著作を収録)

『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』 光文社<カッパ・ブックス>、1955年。

『検察官 神の名において、司法殺人は許されるか』 光文社<カッパ・ブックス>、1956年。

『八海裁判 有罪と無罪の十八年』 中央公論社<中公新書>、1969年。 ISBN 9784121001894


藤崎ラ 『八海事件 裁判官の弁明』 一粒社、1956年。

藤崎ラ 『証拠 続八海事件』 一粒社、1957年。

原田香留夫、佐々木静子 『真昼の暗黒 八海十五年と今後』 大同書院、1967年。(『真実 八海裁判記』の改訂版)

前坂俊之 『死刑』 橋本勝 イラスト、現代書館<フォー・ビギナーズ・シリーズ イラスト版オリジナル 56>、1991年。 ISBN 9784768400562

夏樹静子 『裁判百年史ものがたり』 文春文庫、2012年。 ISBN 9784167184322

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