八木義徳
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八木 義徳
(やぎ よしのり)
河出書房社『女 : 小説集』(1956)より
誕生 (1911-10-21) 1911年10月21日
北海道胆振国室蘭郡室蘭町(現:室蘭市
死没 (1999-11-09) 1999年11月9日(88歳没)
東京都町田市
墓地松源寺 (中野区)
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学
活動期間1934年 - 1999年
ジャンル小説
代表作『劉広福』(1944年)
『母子鎮魂』(1948年)
『私のソーニャ』(1949年)
『摩周湖』(1971年)
『風祭』(1976年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1944年)
読売文学賞(1977年)
菊池寛賞(1990年)
影響を受けたもの

有島武郎横光利一ドストエフスキー

影響を与えたもの

上西晴治

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八木 義徳(やぎ よしのり、1911年明治44年)10月21日[1] - 1999年平成11年)11月9日)は、日本の小説家日本芸術院会員。
生涯

北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父・田中好治、母・八木セイの次男(庶子)として生まれる[1]。父の好治は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院(現在の市立室蘭総合病院)に務めていた[1]。名医と評判であり、その後独立して室蘭市内に田中病院を開業している[1]。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、小樽市海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った[1]。戸籍上は人力車業の村松和四郎・タセ夫妻の子として記載され、生まれてすぐに沖仲仕の小頭内海初三郎・ヨネの家に乳飲み子として預けられ、3歳まで育った[1]婚外子という出生は、義徳のその後の人生に大きく影響した。

1924年大正13年)4月に北海道庁立室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)に入学し、剣道部で活躍[1]。剣道部の先輩から教えてもらった倉田百三有島武郎を読んで文学に目覚める[1]船員志望だったが近視だったために叶わず、海に関係のある北海道帝国大学附属水産専門部製造科(現在の北海道大学水産学部)に進学して札幌市に住む[1]。同級生と樺太旅行をした際に、新問郡で宿代を払えなくなり、鱒缶詰工場で重労働をさせられたことから左翼思想に影響され、そのことが大学から問題視され、大学から退学が発令される前に自主退学する[1]。上京して夜間のロシア語講習会に通いながら、一時左翼運動に身を投じる[1]。運動仲間が逮捕されたことを受けて満州に逃亡し、ハルビンで自殺未遂をするも救助され、室蘭警察署に留置される[1]思想検事の取り調べを受け、転向声明を出して釈放される[1]。失意の中でドストエフスキーを再読する[1]。その後、実母セイの戸籍に入り八木姓となる[1]

1933年昭和8年)4月に第二早稲田高等学院入学[1]。高等学院時代の1934年(昭和9年)6月、第三次『早稲田文学』復刊に参加する[1]。同年10月、中村八朗辻亮一多田裕計らと同人雑誌『黙示』を創刊[1]


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