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八木節(やぎぶし)は、群馬県と栃木県の二県に渡り、愛されている俗謡である(概ね両毛地域)。また、八木節の八木は足利市の宿場、八木宿から取ったものである。 樽を打ってリズムを取り、笛で軽やかな主旋律を奏でる、軽快な調子の民謡である。盆踊りの音頭として、また花柳界の芸妓により流行が作られた。 八木節は、現在は北関東の郷土芸能的側面を強く打ち出しているが、大正年代から昭和初年代には全国に広がる流行が(安来節同様に)あり、寄席芸能でもあった。発祥については諸説ある。そもそも「民謡正調」が大正期に提唱されたものであり、本項・八木節や、安来節、追分などは、隆盛がこの時期に重なった。そのため、同様の争いが起きており注意が必要である。通説では現在の栃木県足利市にあった八木宿において、初代堀込源太(本名、渡辺源太郎)が唄った歌謡がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれていたが、1914年(1913年説もあり)に日本蓄音機商会でレコーディングされる際、「八木節」と命名された。 八木節は口節の、劇的な物語りを語る唄である。代表的な国定忠治のものや五郎正宗、紺屋高尾、鈴木主水、継子三次などの人情物が多い[1]。 群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道に存在する宿場・木崎宿 上野国佐波郡境町在中島(現群馬県伊勢崎市境中島)の桶職だった柿沼庄平は、商売で八木宿方面に出た折に源太を知り、庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村で働いていたが、それから10年ほど、源太の中島村時代があったわけである。源太は、一時馬方などやっていたが、生来の唄好きで、よく馬子唄などを唄っていたが、中島村に来てからは、その唄好きによって口説きを唄い出したが、もって生まれた美声と、抑揚に富んだ節調の上手は抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、呼ばれて唄って歩いたが、中島村の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島村の源太」として大いに名を上げた。これは源太が30歳から35歳の頃のことで、源太の口説きは大変な評判になった。 ところが源太は、間延びした口説きの唄い方を、自分で創意工夫して調子のよい唄い方に変えた。それは軽いリズムに乗ったもので、その調子のよさは、一度に聞くものを圧倒させたのである。その軽い節調により、上州人特有の好奇心を見事に捉え、大いに評判になり「源太節」と呼ばれ、盛行することになった。しかし、源太節のはじめは、囃子方がなかったが、源太と一緒にいた小林半七の話には、はじめはただひとりで、囃子なしで唄ったのだが、しばらくして中島村の連中が工夫して、樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、源太節は一世を風靡することになる。いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は中島村「現伊勢崎市境中島」方々が知恵を出し合い作られ独自の民謡である。もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行して歩いていた。桜井という老婆の話では、とても男前のよい芸人肌だったので、どこへ行っても女が付きまとったという。八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村(現群馬県伊勢崎市境中島)である。その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで10年間ほど唄われた「源太節」がもとになったわけで、八木節は上州「群馬県」で生まれたのであるが、八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。その元流は口説き節で、元禄の頃からの遺物である。木崎村には木崎節、境村(現群馬県伊勢崎市境)では「赤わん節」と呼ばれ、玉村(現群馬県佐波郡玉村町)には「横樽音頭」などと呼ばれ、今でも唄い続けている。
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