八幡神
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八幡神坐像、鎌倉時代、1326年、東京国立博物館蔵(赤穴八幡宮から貸与)重要文化財

八幡神(やはたのかみ/はちまんしん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:八幡神󠄀)は、日本で信仰されるで、清和源氏桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた[1]。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され[2]、神社内に神宮寺が作られた。
概要

現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年大神比義命(おおがのひぎのみこと)によって、宇佐の地に示顕したと伝わる[3][注 1]。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰玉依姫命を祀っている神社も多くあり、安産祈願の神という側面(宇美八幡宮など)もある。
比売神
天津神であるアマテラススサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている[4]宗像三女神宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている[1]。比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある[4]。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[4]。比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説やシラヤマヒメという異説も登場している。
神功皇后
応神天皇は母の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称されたことから、皇后への信仰は母子神信仰に基づくと解釈されることもある。三韓征伐に協力した胸形氏らの崇拝する宗像三女神住吉三神天照大神など数多くの神を各地で祭った。神功皇后は三韓征伐の後に立ち寄った対馬に広幡乃八幡大神(息子の応神天皇)の名の由来である大きな軍旗である八つの旗を立てて神に奉じたと伝えられている。
皇祖神

八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬した[5][6]
神仏習合僧形八幡神

東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが、上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる[7][8]天応元年(781年朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた[9]。一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている[10][11][9][注 2]

平安時代以降、清和源氏桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。
歴史

八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇を八幡神と習合し始めたとされる[4]八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い[4]。なお、後述のように平安時代の初期には聖武天皇の霊が没後に八幡神と結合したと信じられ、同天皇が生前に深く信仰した仏教の守護神とするために八幡大菩薩の号が生まれたとする説もある[12]

八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』であり、その記述は天平9年(737年)の部分にみられる。読み方は天平勝宝元年(749年)の部分にある宣命の「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉鬘の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに[いつ?]神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。

「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「(はた)」を意味する言葉とみられる[4]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[4]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[4]

また、日本の呼称(雅称)のひとつは八島・八洲(やしま)(大八洲国、略して大八洲)である。『古事記』では、対馬九州本州四国淡路壱岐隠岐佐渡の八つの島を指す。

八幡神は宇佐神宮に祀られていたが、数々の奇瑞を現して大和朝廷の守護神とされた。


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